玉前神社|長生郡一宮町一宮の神社

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玉前神社|上総国一宮、旧名神大社

玉前神社の概要

玉前神社は、長生郡一宮町一宮にある神社です。玉前神社の創建年代等は不詳ながら、神武天皇の御代あるいは景行天皇の御代の創立と伝えられ、貞観十年(867年)には従四位下の神階を授与され、延長5年(927)に作成された延喜式神名帳には名神大社として記載される、上総国の一宮です。源頼朝も妻政子の安産を祈願、上総権介平広常が甲冑一領を献上するなど崇敬を集めていましたが、永禄9年(1566)の一宮城落城に伴い多くを損失してしまったといいます。その後里見義頼の寄進などにより再建に着手、徳川家康の関東入国後の天正19年(1591)には社領15石の御朱印状を受領、貞享4年(1687)頃に現在の宮地が整備されたのではないかといいます。明治4年には国幣中社に列格していました。最近では、波乗守がサーファーのお守りとしても有名です。

玉前神社
玉前神社の概要
社号 玉前神社
祭神 玉依姫命
相殿 -
境内社 三峯神社、玉前稲荷神社、十二神社
例祭日 9月13日例大祭(上総裸まつり)
住所 長生郡一宮町一宮3048
備考 旧国幣中社、延喜式神名帳名神大社



玉前神社の由緒

玉前神社の創建年代等は不詳ながら、神武天皇の御代あるいは景行天皇の御代の創立と伝えられ、貞観十年(867年)には従四位下の神階を授与され、延長5年(927)に作成された延喜式神名帳には名神大社として記載される、上総国の一宮です。源頼朝も妻政子の安産を祈願、上総権介平広常が甲冑一領を献上するなど崇敬を集めていましたが、永禄9年(1566)の一宮城落城に伴い多くを損失してしまったといいます。その後里見義頼の寄進などにより再建に着手、徳川家康の関東入国後の天正19年(1591)には社領15石の御朱印状を受領、貞享4年(1687)頃に現在の宮地が整備されたのではないかといいます。明治4年には国幣中社に列格していました。

境内掲示による玉前神社の由緒

玉依姫命は海(龍宮)よりこの地におあがりになり、姉神豊玉姫命より託された鸕鶿草葺不合尊をご養育、後に命と結婚されて初代天皇神武帝をお産みになられました。
ご祭神が私達の生活全般をお守りくださるのは勿論ですがわけても安産・子育てのお働きに象徴される女性の守護神として、また『龍宮』の意味する豊かさや喜びをもたらし餡所をはじめ人のご縁を結ぶ神として古くより信仰されています。
ご由緒
創始は古く詳らかではありませんが、延喜式内名神大社、また上総国一ノ宮として平安時代にはすでに日本の中でも重きをおくべき神社とされていました。明治四年には国幣中社に列しています。
昭和二十三年に当時皇太子であられた今上陛下がご参拝、同二十八年には昭和天皇、平成四年には今上陛下より幣饌料を賜わりました。
また千葉平氏上総権介平朝臣広常をはじめ、源頼朝の妻の北条政子懐妊に際して安産祈願の奉幣、徳川家康が神田十五石を寄進するなど武門の崇敬も多く厚いものでした。(境内掲示より)

「千葉県神社名鑑」による玉前神社の由緒

御祭神は、天神鸕鶿草葺不合尊の皇妃、第一代神武天皇の御母君である。式内名神大社にして上総国一宮で、皇室、武将の尊崇篤く、日本武尊が東征の際宮地・社殿を寄進して東国鎮護を祈願、また景行天皇ご巡幸の際ご親祭遊ばされた。源頼朝も妻政子の安産を祈願、上総権介平広常が甲冑一領を献じ、将軍頼朝公の武運長久を祈る。永禄五年里見、北条の変により社殿宝物一切焼失。天正一〇年里見義頼は宮地を寄進し、同一五石を寄進されている。(「千葉県神社名鑑」より)

「稿本千葉縣史」による玉前神社の由緒

国幣社
玉前神社(一宮町)
長生郡(舊長柄郡)一宮町大字一宮本郷字宮ノ臺に在り、境内千六百五十坪、祭神は玉依比賣命なり。社傳に云ふ、景行天皇東幸の時親察せらると、或は云ふ、創建は其の以前にありと。貞觀十年七月從五位上勲五等玉前神に從四位下を授け、元慶元年五月正四位下を授け、同八年正四位上を授けらる。延喜の時名神大社の列に入る、壽永元年七月平廣常甲一領神田二十町を寄附す、永禄五年一宮城陥落の時兵變に罹り神寶古文書等焼失して事歴を詳にすること能はず。天正十年里見義賴社地を寄せ、同十九年十一月徳川家康社領十五石を寄附す、明治四年六月国幣中社に列せらる。古来近郷舊十二村(一宮本郷・小瀧・川須ヶ谷・上市場・川島・岩沼・水口・藪塚・北水口・大芝・木崎・谷本)の鎮守にして、例祭は九月十三日なり。什寶には神劔・太刀・翁面・猿田彦面・大山祇面・食椀・神盃等あり。天保年中領主加納久徴平廣常寄附の甲冑存在せざるを惜み、楠正成・武田左馬頭等の用ひたる古物を集め甲冑一領を製して之を寄す。境内に十二座あり。(「稿本千葉縣史」より)


「一宮町史」による玉前神社の由緒

玉前神社
一宮字宮之台に鎮座する。「延喜式神名帳」=醍醐天皇の延喜五年(九〇五年)、藤原忠平などが勅を奉じて選修した文献=の巻九に『上総五座大一座小四座」埴生郡一座大」玉前神社名神大』とある古社である。上総五座とは、玉前神社と飽富神社・姉崎神社(両社とも望陀郡=今の君津郡)・嶋穴神社(海上郡1=今の市原市)・橘神社(長柄郡=今の長生郡)の五社で、玉前神社はこの頃すでに国家的な性格の裏づけをもった国家神を祭るものとして扱われていたことが明らかである。社伝では、神武天皇の御代あるいは景行天皇の御代の創立といわれている。古文献では、「三代実録」=延喜元年、藤原時平が勅を奉じて清和・陽成・光孝の三代の事蹟を編集したもの=巻十五には、『貞観十年七月二十七日戊午」授上総国従五位上勲五等玉崎神ニ従四位下』(八六七年)、巻三十一には、『元慶八年丁己」授上総国従四位上勲五等玉崎神ニ正四位下』(八七六年)、巻四十四には、『元慶八年癸酉七月十五日」授上総国正四位下勲五等玉崎神ニ正四位上』(八八四年)と載せられており、当時としても格式の高い神社であったことがわかる。
祭神は、現在では玉依援というのが通説になっているが、古くは確立したものではなかったらしい。「延喜式神名帳頭註」には、『上総国埴生郡玉前 高皇産霊孫玉前命也云不審也 今案高皇魂弟生霊子也 号前玉命 掃部連等祖也』とあり、また、「神名帳考証上総」には、『玉前神社 今在一宮村 天明玉命、姓氏録云忌玉作 高魂命孫天明玉命之後也 古語拾遺云 太玉命所率神明櫛明玉命』とあるように、国家神として格付が定まっていても祭神については定説がなかったようである。
徳川時代においても、この説が継承されており、「大日本史神紙十三」に、『前或作崎 今在長柄郡一宮本郷村 称玉崎明神 操諸鎮座 記云紀日大己責命 是蓋玉前以為前玉遂附会幸魂可信也 神名帳頭註一宮記為高皇魂命孫玉前命 然玉前命古書無所見 或伝記海神玉依姫亦無確拠」と記されてある。しかし、当地では古くから玉依援として信仰され、本地仏は婆迦羅竜王(八大竜王の一王、天海に住す)第三女とされていたもので、玉前の名称より混同された説と思われる。また、一説には、玉前の名は祭神によるものではなく、古くは九十九星浜を玉浦と唱え太東崎を南端とするところから玉崎の名づけたものとも云われている。
玉前神社は、たびたび災禍にあって古記録・宝物たども失われたものが多く、縁起書なども古いものは殆んど残っていないが、伝承の古記録などは徳川時代に一括して整理されており、そのほか古社家に伝わる古文書も発見されているので概況を推察することができる。
災禍のうち、最も大きな被害を受けたのは永禄年間の戦禍であったようである。永禄九年九月九日(一五六六年)、一宮城は落城し玉前神社も焼失した。玉前神社の社家および一統は、「上総国誌」にも、『一宮社士亦専有関軍事之勢。戦国風習可想也』とあるように、戦国時代の慣行上から軍事に積極的に協力したため、落城は神社の興亡を左右する大事であったと推察される。そこで城兵の一部を含む三百余名と共に下総に落ちのびたわけである。その途中、本納城主黒熊大膳亮の残党(既に落城し再興をはかつていたもの)にさえぎられ、小塚左内ほか数人が討死した。風袋主税之助は道をかえして迂回し、十日夜、現在の東金市の東北(玉村)に夜を徹した。(中略)
かくして海上郡守職海上刑部左衛門常忠のもとに頼ったのであった。寄留してのち常忠の支配下の下永井に玉前神社を仮設し、その後、約十五年聞に渉りとどまった。
海上氏をたよった理由としては、この時より約三十年前に飯岡砂子の玉崎神社が下永井竜王岬より還座のとき(天文二年)に田中氏(一宮神宮)が祭事を依嘱されたことと、海上氏と田中氏が縁故関係があったためであるとみられる。天正五年に一宮に帰ったが、埴生郡一宮荘は飯岡滞在中に編入されていたので、延喜式神名帳に載せられている「埴生郡一座大」の記録が災し、そのうえ、宮地の所有権も移動していたため復興は困難であったらしい。その状況をみて里見義頼は、宮地を寄進して復興を援助している。
(中略)
現在の宮地が整備されたのは、社殿の棟札の最古のものが、貞享四丁卯年三月十三日(一六八七年) とあることよりみて徳川時代になってからであろう。
信仰の対象としては、古くから朝廷・豪族・幕府などの被護のもとに、上総一宮の格式を保っていた。醍醐天皇の延喜二十二壬申年五月、勅使の下向あって式内大社の取り扱いを受けており、歴代の神事行事の記録にもその名がみえているものが多い。鎌倉以前においても千葉系諸家の崇敬を受けたことが伝えられ、平広常は吾妻鏡にも記載されるとおり篤く信仰したようである。鎌倉との関連をみても、「本朝世紀」巻十四に、康治二年(一一四三年)八月十一日源為季が玉前神社の神罰によって頓死したことが載せられ、吾妻鏡に「治承六年八月十一日己酉、御臺所有御産気。武衡渡御。茲為御祈禱、、被立奉幣御使於伊豆筥根両所権近国宮社。所謂、伊豆山(土肥弥太郎)筥根(佐野太郎)、相模大山(梶原平次)三浦十二天(佐原十郎)武蔵六所宮(葛西三郎)常陸鹿島(小栗十郎)上総一宮(小権介良)下総香取社(千葉小太郎)安房東条〇(三浦平六)同国洲崎社(安西三郎)。」とあり頼朝が政所政子の安産祈祷をした関東十社に入っている。。また同じく吾妻鏡に、「寛喜元年十一月十日、依去四日雷電、為世上御祈、近国一宮被立奉幣御使。…中略…上総国足利五郎長氏等也。各被進神馬神剣等。又於社檀可転読大般若経之由、被仰別当等。」とあり、天変地異のときの祈禱の対象となっていた。
天正十九年十一月には、徳川家康は御朱印をもって神田十五石を寄附しており、政策的な色彩が強いとはいえ一応は名社として崇敬の対象としている。天保年間には、一宮藩主加納久徴が甲胃一領を寄進している。(これは平広常寄進の甲胃が失われていることを歎いて、楠正成・武田左典厩・その他の英雄の使用したものを集成して作ったものと伝えられている。)これらの事例でも明らかなとおり、
朝廷・幕府・武将などの信仰対象としても重要視されていたととがわかる。
明治四年六月、国幣中社に列せられている。現社務所は、紀元二千六百年記念として国庫負担を基金として、地元の協力によって新築されたものである。第二次世界大戦ののち神祇官制が廃され、国庫よりの神饌幣帛を供進することはなくなった。(「一宮町史」より)

玉前神社所蔵の文化財

  • 玉前神社社殿(県指定有形文化財)
  • 上総神楽(県指定無形民俗文化財)
  • 芭蕉の句碑(一宮町指定文化財)
  • 梅樹双雀鑑(国指定重要文化財)
  • 玉前神社槙の群生(一宮町指定文化財)

玉前神社社殿

玉前神社は、玉依姫命を祭神とする「延喜式」神名帳にも見える古社で、「三代実録」にも記録される由緒ある神社である。鎌倉時代には上総一宮としての格式を保っており、北条氏、里見氏の天正の変で罹災し、天正十年(一五八二)里見義頼により再建されたと伝える。
現在の建物は、江戸中期の貞享四年(一六七八)に、本殿が大工棟梁大沼権兵衛、拝殿と幣殿は井上六兵衛によって竣工された。
本殿は、桁行三間、梁間二間、一間の庇を付ける入母屋造りである。拝殿は、桁行五間、梁間二間の入母屋造りで、正面に向唐破風を付ける。幣殿は、本殿と拝殿をつなぐ建物で、桁行四間、梁間一間の規模である。全体が複合社殿(権現造)となっており、屋根は寛政十二年(一八〇〇)に現在に見られるような銅板葺に改められている。
県内でも余り例を見ない様式を残す社殿は、社格とその歴史を今に伝えている。(千葉県教育委員会・一宮町教育委員会掲示より)

上総神楽

起源は、宝永七年(一七一〇)神楽殿造営の折江戸神楽の源流である土師流の神楽師に伝授されたということが、社家の記録にある。
千葉市南生実の八劍神社の記録によると、享保元年(一七一六)社殿を造営し遷宮式をした際た玉前神社の神楽師を招き、二日間神楽を奉納したとあり、約三〇〇年近い歴史をもつ古格をよく保存している。太太神楽である。
かつては三十六座舞われていたようであるが今は二十五座が伝承され、氏子により上総神楽保存会が結成され、後世への継承と育成がはかられている。
毎年正月元旦、四月十三日の春季大祭、九月十日から十三日の例祭など、七度奏されている昭和三十三年県の無形民俗文化財に指定された。(一宮町教育委員会掲示より)

芭蕉の句碑

この碑は表面中央に「たかき屋にの御製の有難を今も猶 叡慮にて賑ふたみや庭かまど はせを」と大書されている。「はせを」は芭蕉のことであり、元禄元年(一六八八)秋冬の頃の作で、仁徳天皇の聖徳を称えたものである。左端には「名にしおはば名取草より社宮哉 金波」の句を発句とする表十句を刻んである。
背面には、上部に「無尽言」の題字、その下に百四十九句を刻み、起名庵金並みの芭蕉景仰の撰文銘あり、左端に「明治紀元戊辰晩秋 催主 千丁 河野五郎兵衛」とあり、上総千町村(現茂原市千町)の俳人起名庵金波 河野五郎兵衛一門によって建てられたもので、書も金波といわれている。
金波は文化元年(一八〇四)岡山の井出家に生れ、俳句を学び起名庵を創始した。嘉永五年(一八五二)千町村の河野家の養子として迎えられ明治二十年八十四歳で没した。(一宮町教育委員会掲示)

玉前神社の周辺図


参考資料

  • 「稿本千葉縣史」
  • 「千葉県神社名鑑」
  • 「一宮町史」