白鳥山浄徳寺|安房上総知県事役所跡
浄徳寺の概要
臨済宗妙心寺派寺院の浄徳寺は、白鳥山と号します。浄徳寺は、僧妙覚が臨済宗建長寺派寺院として延元4年(1339)に創建、第三十世の中興開山太虚宗簡禅師座元の代に臨済宗妙心寺派となったといいます。南北朝時代から室町時代にかけて興隆、徳川家康が天正18年(1590)に関東入国、翌年(1591)には寺領50石の御朱印状を与えようとしたものの、大多喜圓蔵寺・長柄山胎蔵寺へ各20石を、当寺には10石を与えるよう求めたといいます。明治維新後には、安房上総知県事の柴山文平が、慶応4年(1868)8月に安房上総知県事役所を当寺と定め、翌年本国寺へ移されるまで知県事役所が置かれていました。
山号 | 白鳥山 |
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院号 | - |
寺号 | 浄徳寺 |
住所 | 長生郡長南町長南1912 |
宗派 | 臨済宗妙心寺派 |
縁日 | - |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
浄徳寺の縁起
浄徳寺は、僧妙覚が臨済宗建長寺派寺院として延元4年(1339)に創建、第三十世の中興開山太虚宗簡禅師座元の代に臨済宗妙心寺派となったといいます。南北朝時代から室町時代にかけて興隆、徳川家康が天正18年(1590)に関東入国、翌年(1591)には寺領50石の御朱印状を与えようとしたものの、大多喜圓蔵寺・長柄山胎蔵寺へ各20石を、当寺には10石を与えるよう求めたといいます。明治維新後には、安房上総知県事の柴山文平が、慶応4年(1868)8月に安房上総知県事役所を当寺と定め、翌年本国寺へ移されるまで知県事役所が置かれていました。
「長生郡郷土誌」による浄徳寺の縁起
浄徳寺
長南區字浄徳寺谷にあり、白鳥山と號す、臨済宗の中本山なり。寺傳ににれば、暦應二年妙覺禅師の開基にして、中興太廬禅師の時、徳川家康寺領五十石を賜はりしに、太廬十石を以て足れりと爲し、大多喜圓蔵寺及長柄山胎蔵寺へ各二十石を分賜せられんことを請ふ、幕府之を嘉みし、其の請を許せり。天正十八年検地代官本寺を以て旅館と爲し、明治元年知事縣事業柴山文平また假廳を本寺に開けり。梵鐘一口あり、徳川家光及久世廣之の寄進にして、正保二年の鑄造なり。房総志料に、「長南に浄徳寺といふ禅家有り、門の額に金毛窟の三字を題せり、是は能賣村の金毛窟の字を寫したる也。堂の後に假山有、其の景凡ならず、寺僧曰く夢想國師の築たる山也と、しらず然るや否」とあり。(「長生郡郷土誌」より)
「長南町長南の歴史と民俗」による浄徳寺の縁起
上宿
白鳥山浄徳寺(臨済宗妙心寺派)
延元四年(一三三九年)僧妙覚が創建したとされる。当初同宗建長派に属していたが、後に第三十世の中興開山太虚宗簡禅師座元の代に現在の妙心寺派となった。
釈迦如来像を安置し、開山像一躯、勅謚知覚普明国師画像一幅、鋳銅誕生仏などにより、南北朝時代から室町時代にかけての興隆を知ることができる。
また、天正十九年(一五九一年)徳川家康から、御朱印寺領五十石を授けられ、かつては、境内に地蔵堂、金刀毘羅宮が所在した。さらに、本堂は徳川家光により寄進されたと伝えられている。
なお、明治元年上総安房監察兼知県事に任命された柴山文平が、短期間ながら仮役職をここに置き、各布令を発したことからも歴史的に重要な寺である。
しかしながら、今日では門、鐘楼などが僅かに寺院としての痕跡を止めるが、本堂などは再建されていない。
不動尊
現在では、簡素な建物のみが残るだけであり、僅かな墓地が一角に見られる。(「長南町長南の歴史と民俗」より)
浄徳寺所蔵の文化財
- 安房上総知県事役所跡(長南町指定史跡)
安房上総知県事役所跡
慶応四年(一八六八)七月二日、新政府から安房上総知県事に任命された柴山文平は、八幡宿に進駐した。しかし、八月中旬には長南宿に移り、浄徳寺を知県事役所と定めた。更に役所は、明治元年一二月一六日、国替の井上藩と事務引継を行い宮谷(山武郡大網白里町)の本国寺へ移った。その間、約五か月の短い期間ではあったが、新政府の布達はすべてこの長南役所から県下に発せられた。
長南宿は上総のほぼ中央に位し、古くから「上総の名邑」と言われ、江戸と房総を結ぶ要路にあり、浄徳寺は、延元四年(一三三九)僧妙覚の創建と伝えられる臨済宗中本山で寺格も高い。役所は、それ等の諸条件から長南宿の浄徳寺が選ばれたものと思われる。(長南町教育委員会掲示より)
白鳥山浄徳寺の周辺図
参考資料
- 「長生郡郷土誌」
- 「長南町長南の歴史と民俗」