笠森寺|長生郡長南町笠森にある天台宗寺院

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大悲山笠森寺|坂東三十三ヶ所観音霊場の笠森観音堂

笠森寺の概要

天台宗寺院の笠森寺は、大悲山と号します。笠森寺は、延暦3年(784)に最澄(傳教大師)が創建、笠森観音堂は後一條天皇の勅願により長元元年(1028)に建立されたと伝えられる古刹寺院です。鎌倉時代には、日蓮宗の開祖日蓮上人も当堂で修学したとされ、天正年間に小田原北條氏が長南城を攻めた際に戦火に遭ったものの、観音堂は安土桃山時代に再建、国重要文化財に指定、坂東三十三ヶ所観音霊場31番札所となっています。また観音山一帯は、笠森寺開創当時から禁伐林として保護されてきたと伝えられる自然林で、国天然記念物に指定されています。

笠森寺
笠森寺の概要
山号 大悲山
院号 -
寺号 笠森寺
住所 長生郡長南町笠森302
宗派 天台宗
縁日 -
葬儀・墓地 -
備考 -



笠森寺の縁起

笠森寺は、延暦3年(784)に最澄(傳教大師)が創建、笠森観音堂は後一條天皇の勅願により長元元年(1028)に建立されたと伝えられる古刹寺院です。鎌倉時代には、日蓮宗の開祖日蓮上人も当堂で修学したとされ、天正年間に小田原北條氏が長南城を攻めた際に戦火に遭ったものの、観音堂は安土桃山時代に再建、国重要文化財に指定、坂東三十三ヶ所観音霊場31番札所となっています。また観音山一帯は、笠森寺開創当時から禁伐林として保護されてきたと伝えられる自然林で、国天然記念物に指定されています。

境内掲示による笠森寺の縁起

大悲山笠森山縁記附修理記等
當寺は延暦年中天台宗宗祖傳教大師の御創立になった古刹で板東第三十一番の観世音霊場であります。
この本堂は長元元年(西暦一〇二八)後一條天皇の勅願によって大内の番匠飛騨の工匠一條の康頼と堀川の友成による建造と伝えられ現在国の重要文化財に指定され特別の保護がなされております。昭和三十三年十月より同三十五年十二月全解体復原大修理が施され、その昔の姿に復旧し又併せて火防その他の防災施設の完備により全国唯一の貴重な文化財が後世に傳えられることが出来得るのは極めて意義深いことであります。
尚観音山一帯は自然林で植物の豊富な群落です。又地質學上この山を笠森層といわれております。
宝物としては重要文化財銅燈籠、應永年間作の磐及鰐口が知られております。
昭和三十六年一月(境内掲示より)

「稿本千葉県史」による笠森寺の縁起

大悲山笠森寺
同村(水上村)大字笠森菖蒲ヶ谷に在り、境内千九百七十坪、俗に笠森觀音堂と稱す、慶長以降明治初年迄寺領二十石を有せり。寺傳に云ふ、延暦三年僧最澄此の地に来り老楠樹を得て高さ七尺三寸の十一面觀音像を刻し、草堂を造りて之を安置す。冷泉天皇の皇子五條宮太守に任ぜられ、本州に下り蔵人清光の妹を納れて側室と稱し給ふ、側室身む有り幾何も無く五條宮京に還り給ひて後王女を産む、王女長して姿色有り、常に觀音に祈りて父宮に見えんことを求む、會後一條天皇の女御薨し天皇快々として楽み給はず、侍臣謀りて美女を諸國に召して之を慰し奉らんとす、此の時王女選ばれて京に上り更衣と爲る、籠あり、桐壺の女御を産む、天皇嘗て故郷の事を問ひ給ひしに、更衣觀音の事を語り、其の堂を造らんことを請ふ、勅して之を造營せしめ法東大悲山笠森寺の號を賜ふ、即ち今の堂これなり、天正中北條氏の兵廳南城を攻めし時笠森寺を焼く、然れども本堂は奇瑞有りて遂に其の災を免れたりと。堂は山腹に構へられ地盤高低あり基柱長短有りて奇構比類希なり、堂前仁王門・二天門等あり、別當楠光院も亦最澄の草創、覺起の中興に係る、僧日蓮初め本寺に在りて修學したりと云ふ。本堂は桁行五間梁間四間の單層にして屋根は四注造銅板葺なり、特別保護建造物の資格あるものと指定せらる。(「稿本千葉県史」より)


笠森寺所蔵の文化財

  • 笠森観音堂(国重要文化財)
  • 鋳銅唐草文釣燈籠(国重要文化財)
  • 笠森寺自然林(国指定天然記念物)
  • 鋳銅鰐口(千葉県指定文化財)
  • 鋳銅孔雀文磐(千葉県指定文化財)
  • 笠森寺本坊表門(長南町指定文化財)
  • 笠森寺絵馬一面(長南町指定文化財)
  • 笠森層

天然記念物笠森寺自然林

延暦年間笠森寺開創当時から禁伐林として保護されてきたと伝えられる暖帯林の残存林である。高木層はスダジイを主体としてイテイガシなどからなり、亜高木層・低木層にはこれら樹種のほかにヒサカキ・イズセンリュウなどが加わって繁茂し林床にはコバノカナワラビ等シダ植物が多い。
以上のように自然がよく保たれているため動物相も豊富で、イタチなどの獣類、フクロウなどの鳥類がみられ、ヒメハルゼミなどの昆虫も多く、関東地方に残存している自然林として学術上の価値は極めて高い。(境内掲示より)

笠森寺本坊表門

一間一戸の四脚門で、屋根は、切妻造り二重棰の本瓦葺である。
欅材の主柱の前後に、二本づつの控柱を配し、杉材の唐居敷をつけ、主柱の右へ二間、左に一間の袖塀をつけ、腰貫・頭貫をとおし台輪をめぐらし、斗栱を組み、蟇股・木鼻等本格的な門建築様式であり、木鼻の上に、元禄十年(一六九七)建造の墨書が見られる。
蟇股等に彩色のあとが残され、総体的に、各部に彫刻を配する等、元禄の華麗な建築様式の特長が見うけられる。(長南町教育委員会掲示より)

笠森寺絵馬一面

日本では古く、五世紀ころから馬は神の乗り物として神聖視されていた。奈良時代以前から生き馬が、神馬として献上され始めたが、生馬のかわりに土製・陶製・木製の馬形で替えることも行われた。また、立体的馬形でなく、平面裁断し彩色した絵馬も平安時代から用いられた。
笠森観音堂の日蓮聖人参籠の間の「日蓮上人御影」の絵馬は、江戸時代初期の狩野派の絵師で京都に生まれ、のち、江戸に出て幕府の奥絵師となった狩野安信(一六一三-一六八五)の描いたもので、日蓮上人が観音堂に建長五年(一二五三)四月参籠のおり、墨田の住人墨田五郎時光が、日蓮の説法をきき、深く感じ、信者になったと言はれ、笠森寺縁起(元亀二年一五七一)にも記されている。
絵馬は、縦一二〇センチ横一五〇センチで説法中の日蓮上人と、それを聞く墨田五郎時光が描かれている。
県下では、天正七年(一五七九)の大網白里町縣神社の牛若丸・弁慶を描いた一対の絵馬についで、古いとされている貴重な歴史資料である。(長南町教育委員会掲示より)

笠森層

笠森層とは、笠森付近に代表的に見られる地層で、青灰色塊状泥質砂岩や砂質泥岩からなり、更新世の約50~60万年前に海底の大陸斜面に堆積したと考えられています。地層の間には二十数枚の海底火山噴出物が挟まれており、他の地層との対比に使われています。
厚さは約300mで、北東から南西方向に伸び、2~4度北西に傾斜しています。化石としては、二枚貝・巻貝などが産出しています。また、生痕の化石が密集しているところもあります。(境内掲示より)

大悲山笠森寺の周辺図


参考資料

  • 「稿本千葉県史」