縣神社|大網白里市土気飛地の神社

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縣神社|縣主が奉祀、土気古城地から当地へ遷座

縣神社の概要

縣神社は、大網白里市土気飛地にある神社です。縣神社の創建年代等は不詳ながら、第十三代成務天皇の御代に当時の地方官長である縣主が奉祀したと伝えられます。酒井小太郎定隆が土気城主となった際、土気古城から当地へ遷座され、土気城の鬼門除けとして祀られたといいます。小田原城落城に伴い酒井氏は退転、徳川家康の関東入国に際して天正19年(1591)社領5石の御朱印状を受領、山武郡内での神社で唯一御朱印状を受領しました。第五代土気城主酒井伯耆守康治が天正7年(1579)当社に奉納した絵馬二面は、狩野右京亮光信が描いた牛若丸弁慶五條橋之図で千葉県有形文化財に指定されています。

縣神社
縣神社の概要
社号 縣神社
祭神 大日孁貴尊
相殿 橘比賣命、誉田別命
境内社 -
例祭日 4月20日春季例祭、7月20日秋季例祭
住所 大網白里市土気飛地1876
備考 旧村社



縣神社の由緒

縣神社の創建年代等は不詳ながら、第十三代成務天皇の御代に当時の地方官長である縣主が奉祀したと伝えられます。酒井小太郎定隆が土気城主となった際、土気古城から当地へ遷座され、土気城の鬼門除けとして祀られたといいます。小田原城落城に伴い酒井氏は退転、徳川家康の関東入国に際して天正19年(1591)社領5石の御朱印状を受領、山武郡内での神社で唯一御朱印状を受領しました。当社は大日孁貴尊を祀っていたものの、長柄郡本納村橘神社建築の際、暫く其の神璽を本社に奉安したことから弟橘比賣命を合祀、酒井定治が鶴岡八幡宮の神寶を奉納じて八幡神を相殿に祀ったといいます。

境内掲示による縣神社の由緒

縣神社由縁記
当神社は、その創立年月を詳らかにしえないが、第十三代成務天皇の御代に当時の地方官長である縣主が奉祀した神社であると伝承されている。のち長享二年(西暦一四八八年)酒井小太郎定隆が土気古城を再興した折鬼門除けの神として当地に再建し、以後酒井氏の守護神として崇め奉られた。酒井氏は第五代康治を以って亡び、後徳川氏の治領下に及んで、天正十九年、家康公を始めて代々より五石の御朱印領を寄進せられた山武郡内唯一の神社である。また一一五代櫻町天皇の御代寛保元年には宮廷より幣帛を賜わる等極めて由緒ある神社である。文化十三年野火のため焼失したが天保十四年(西暦一八四四年)再建された。昭和五十三年千葉県神社庁より規範神社として指定された。(境内掲示より)

千葉県神社名鑑による縣神社の由緒

創立年代は詳らかでないが、第一三代成務天皇の御代、地方官長である県主が奉祀したとされている。長享二年酒井小太郎定隆が土気古代再興の折、鬼門除けの神として当地に再建した。天正一九年より徳川家康公をはじめ秀忠公・家光公・家綱公よりそれぞれ五石の御朱印領を寄進された。また寛保元年六月宮廷より幣帛を賜わる。文化一三年社殿を焼失、天保一四年再建され現在に至る。昭和五三年規範神社の指定を受ける。社宝の絵馬二面、牛若弁慶五条橋之図は、県内最古のものとされ千葉県指定文化財である。(千葉県神社名鑑より)

「稿本千葉縣史」による縣神社の由緒

縣神社
同郡(山武郡・舊山邊郡)土氣本郷町大字土気の東北字御山高原の上に在り、(舊金谷郷への飛地)境内七百五十三坪、祭神は大日孁貴尊にして相殿には弟橘比賣命・譽田別尊を祀る、天正十九年十一月徳川家康社領五石を寄附す。社傳に云ふ、創建不詳、或は云ふ、日本武尊東征の時之を祀ると、或は云ふ、仲哀天皇の時之を祀ると。當時單に大日孁貴尊を祀り、舊土氣城主此の地に居るに及び、尊んで縣大神と稱せり。後長柄郡本納村橘神社建築の際、暫く其の神璽を本社に奉安す、故を以て弟橘比賣命を合祀す、長享の初め酒井定隆土氣城を修築するに及び、社地城内に入る、故に今の地に遷し本壽寺を以て別當に充つ、是より舊例を失ふ。定隆實は足利氏の蘗なり、故を以て最も八幡大神を信じ、子孫に傳へて之を崇敬せしむ、子定治其の志を繼ぎ、里見實堯に從つて海を渡り北條氏と鎌倉に戰ふに及び、鶴岡八幡宮の神寶を奉納じて歸り、之を相殿に祀りて八幡大菩薩と號す、維新の後本壽寺の別當を罷め今の社名に改めたりと。社地廣くして緑樹鬱蒼たり、樹間より九十九里沃野の佳景を眺むることを得。本社神寶中牛若辨慶五條橋の繪額一對を蔵す、其の裏面に書して曰く、縣大明神奉捧判官之畫像辨慶之畫像右処願成就如件天正巳卯十二月二十六日酒井伯耆守康治敬白と、蓋し狩野光信の描きし品なりと云ふ。大正二年四月幣饌料供進指定(「稿本千葉縣史」より)


縣神社所蔵の文化財

  • 絵馬二面(牛若丸弁慶五條橋之図)(千葉県指定有形文化財)
  • 縣神社本殿(大網白里市指定有形文化財)
  • 県神社の大杉(大網白里市指定文化財)

縣神社本殿

長享二年(一四八八)酒井小太郎定隆が土気城再興の折、鬼門除けとして土気古城からこの地に移したと伝えられ、大日孁貴命、橘比賣命、誉田別命の三柱を祀り、近世には朱印地を寄進されるなお、幕府の庇護を得て栄えたが、文化十三年(一八一六)に社殿を焼失、天保十四年(一八四三)に再建されたという。
本殿は、規模の大きな三間社流造え瓦棒銅板葺の屋根を架け、身舎の組物から上方妻飾りにかけての各種の彫刻は、他に例を見ない斬新な手法であるといわれる。(大網白里市教育委員会掲示より)

縣神社の周辺図


参考資料

  • 「千葉県神社名鑑」
  • 「稿本千葉縣史」