海應山不動院|東三十三所観音霊場、下総四郡八十八所霊場
不動院の概要
船橋市本町にある真言宗豊山派寺院の不動院は、海應山と号します。不動院の創建年代等は不詳ながら、寛政12年(1800)の村鑑に記載されていることから、江戸時代中期以前の創建と考えられます。東三十三所観音霊場24番、下総四郡八十八所霊場28番です。
山号 | 海應山 |
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院号 | 不動院 |
寺号 | - |
住所 | 船橋市本町3-4-6 |
宗派 | 真言宗豊山派 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
不動院の縁起
不動院の創建年代等は不詳ながら、寛政12年(1800)の村鑑に記載されていることから、江戸時代中期以前の創建と考えられます。
「船橋市史」による不動院の縁起
(九日市村)不動院
真言宗。前記村鑑(寛政十二年「村鑑明細書上帳」)に本尊は大聖不動明王とある。「船橋村書上帳」には覚王寺末で、境内一反六畝二四歩とある。「真言本末」にも覚王寺の末寺として載せられている。(「船橋市史」より)
不動院の周辺図
- 大仏追善供養
大仏追善供養
船橋の海は、江戸時代初めことから半ば近くにかけて幕府に魚介を献上する「御菜浦」とされた好漁場でした。
元禄16(1703)年の大地震による海底地形の変化などで、翌年から魚介の献上は中止され、代金納になりました。その後この漁場を巡って、近隣(堀江・猫実・谷津・鷺沼など)の漁師たちと多くの争いが起こりました。
文政7(1824)年、船橋村と猫実村(現在の浦安市)との漁場の境界を巡る争いが続いていた時、船橋漁師の占有漁場の船が侵入してきました。その中に、一橋家の幟を立てた船があり、乗っていた侍を船橋の漁師が殴打し、幟を奪ってしまいました。大きな事件であったことから、船橋の猟師総代3名が入牢させられました。1名は牢死し、1名は牢を出て間もなく死亡しました。そのため、延享3(1746)の津波による溺死者と、漁場を守り死んでいった漁師総代の供養をあわせて行うようになったのです。
大仏追善供養は事件の翌年の文政8(1825)年以来、毎年1月28日(明治以降は2月28日)に行われるようになりました。本来この大仏は、津波によって溺死した漁師や住民の供養のため、延享3年に建立された石造釈迦如来坐像です。供養の日には、炊き上げた白米の飯を大仏に盛り上げるようにつけます。これは牢内で食が乏しかった苦労をなぐさめるためといわれています。大仏の西側には漁師総代2名の供養碑が建てられています。(船橋市教育委員会掲示より)
不動院の周辺図
参考資料
- 船橋市史