東光寺|船橋市古和釜町にある天台宗寺院

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瑠璃光山東光寺|石造自休大徳坐像、吉橋大師八十八所霊場

東光寺の概要

船橋市古和釜町にある天台宗寺院の東光寺は、瑠璃光山と号します。東光寺は、源義康(足利氏の祖)の嫡男源義道が当地に移住、その子孫義則入道恵光が平安時代末期に創建したといいます。境内からは室町時代の板碑や銘文がある宝篋印塔の基礎部が出土しています。また、石造自休大徳坐像は、深見十左衛門が出家後に石工に刻ませたものと伝えられ、十左衛門没後に仕えていた者が当地に安置したとされ、船橋市有形文化財に指定されています。吉橋大師八十八所霊場9番・23番、下総四郡八十八所霊場9番です。

東光寺
東光寺の概要
山号 瑠璃光山
院号 -
寺号 東光寺
住所 船橋市古和釜町365-1
宗派 天台宗
葬儀・墓地 -
備考 -



東光寺の縁起

東光寺は、源義康(足利氏の祖)の嫡男源義道が当地に移住、その子孫義則入道恵光が平安時代末期に創建したといいます。境内からは室町時代の板碑や銘文がある宝篋印塔の基礎部が出土しています。

境内掲示による東光寺の縁起

東光寺の由来
御本尊阿弥陀如来立像高サ一・二米
野州足利郡(栃木県)の源義康の嫡男、源義道十八才の時父の勘気を蒙り、東行し下総に入る。濠を廻し居を構える(現古和釜町より西方十町程の台地と大穴町との境堤下に俗称小穴城跡があった)後次第に人家増加し、平安末期頃に義則入道恵光、此の地に東光寺開創せられると伝えられている。後数回の改築があり、現在の本堂は昭和五十四年八月に落慶されました。
昭和六十年五月吉日 船橋市史より(境内掲示より)

「船橋市史」による東光寺の縁起

(古和釜村)
天台宗。『県寺明細』に泉倉寺末で、延暦寺派とある。(「船橋市史」より)

「千葉縣千葉郡誌」による東光寺の縁起

東光寺
豊富村古和釜にあり。延暦寺派に屬し泉倉寺の末寺なり。堂宇間數七間奥行五間、境内に佛堂一宇あり、薬師堂と稱ふ。境内坪數九百拾壹坪凡て官有地、境外所有地一町四反六畝二十九歩を算し、檀徒人員四十八人を數ふ。
(「千葉縣千葉郡誌」より)


東光寺所蔵の文化財

  • 石造自休大徳坐像(船橋市指定文化財)

石造自休大徳坐像

石造自休大徳坐像は東光寺の厨子に納められていたもので、高さ27cm、袈裟をかけた像形の坐像で、像の背面に「自休大徳」という文字が刻まれています。
自休とは江戸時代前期の侠客である深見十左衛門の号です。古くからの言い伝えによると、十左衛門の父は福島正則の武将で、十左衛門自身も藤堂家に仕える高禄の士でしたが、自ら浪人となり、侠客の頭になりました。しかしその後、幕府に捕えられ、隠岐国(現在の島根県)に島流しとなりました。約30年後、赦されて江戸に戻り、剃髪して自休と号し、江戸駒込片町(現在の東京都文京区本駒込)龍光寺内に庵を結びました。剃髪後、石工に刻ませたのがこの像であるといわれ、十左衛門に長い間仕えていた者が、その没後にこの像を持って全国を行脚し、最後にこの地にたどりついたので、像を東光寺に安置したとも伝えられています。十左衛門は、歌舞伎「助六所縁江戸桜」に登場する『髭の意休』のモデルといわれ、墓所は本駒込の龍光寺内にあります。
東光寺は天台宗の寺院で瑠璃光山青蓮院といい、もとは印旛郡永治村小倉泉倉寺(現在の印西市)の末寺でした。境内からは室町時代の板碑や銘文がある宝篋印塔の基礎部が出土していることから、かなり古い起源を持つ寺であると考えられます。(船橋市教育委員会掲示より)

東光寺の周辺図


参考資料

  • 「船橋市史」
  • 「千葉縣千葉郡誌」