五井大宮神社|市原市五井中央南の神社
五井大宮神社の概要
五井大宮神社は、市原市五井中央南にある神社です。五井大宮神社は、日本武尊東征の際に創建したと伝えられ、源頼朝が房総から鎌倉へ向かう際にも祈願、江戸期を通して領主の崇敬を受け、享保年間(1716-1736)までは近郷4ヶ村の鎮守社だったといいます。明治維新後は村社に列格していました。
社号 | 大宮神社 |
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祭神 | 国常立命、天照皇大神、大己貴命 |
相殿 | - |
境内社 | 大六天神社、浅間神社、子安神社、水神社、疱瘡神社、天満神社、日枝神社、八雲神社 |
例祭日 | 春季例祭3月27日、秋季例祭11月1~3日 |
住所 | 市原市五井中央南1-20-7 |
備考 | - |
五井大宮神社の由緒
五井大宮神社は、日本武尊東征の際に創建したと伝えられ、源頼朝が房総から鎌倉へ向かう際にも祈願、江戸期を通して領主の崇敬を受け、享保年間(1716-1736)までは近郷4ヶ村の鎮守社だったといいます。明治維新後は村社に列格していました。
「千葉県神社名鑑」による五井大宮神社の由緒
日本武尊御東征の時創祀され、天平元己巳年九月改造す。世人「大宮」と称え自ら社名となる。治承四年源頼朝が房州より上総を経て東上の折奉幣、祈願を修む。天文中北条氏、里見民と兵を構えるや祠前に参寵して戦勝を祈り大刀一口を献ず。徳川時代は地頭、領主の崇敬厚く、さらに開運・殖産・農漁業の守護神として庶民の崇敬の的となる。昭和三二年より本殿・幣殿・拝殿・社務所以下主要建物を新修造。近年厄除方除の神として深い信仰を集めている。大正五年村社に列す。(「千葉県神社名鑑」より)
「市原市史」による五井大宮神社の由緒
日本武尊東征の時に祀る。源頼朝も祈願したという。地頭松平氏、神尾氏、領主有馬氏の崇敬をうけた。宝暦九年(一七五九)九月造立手水石(願主・江坂屋半兵衛)と嘉永六年(一八五三)九月造立石大鳥居とがある。共に豪華なものである。(「市原市史」より)
「市原郡誌」による五井大宮神社の由緒
五井町宮の下にありて國常立命・天照皇太神・大山祇命・埴山姫命を祭る、當社は景行天皇の御宇日本武の尊東征の時之を祀り、東夷の靜平を祈る、降て治承中源賴朝安房より上總を經て東上するや幣帛を以て祈る所あり。建久中家臣に命じて報賽せしむ、爾後屡、家臣を遣して代参せしと云ふ。天文中北條氏の里見氏と兵を構ふる時、祠前に参籠して戰勝を祈り太刀一振を獻ず、徳川氏の世に及び地頭松平家信神尾守勝・領主有馬氏倫等深く之を崇敬し、毎年幣帛を奉じ祭具を獻じて采邑の鎮護武運の長久を祈られたりといふ。偶々火災に罹り古記什寶悉く烏有に歸す。寛政の頃は地頭領主に於て修築す、享保年度迄は近郷四となりの總鎮守たりきと。現宇は即ち寛政五年の再建にして元蔵する所の棟札に徴すれば、永正七年再建以来寶永七年家老赤思新右衛門・藤井源兵衛の修造せしものにして、享保年中再度の修理を加へたるものゝ如し。寶物としては神鏡四面(品質青銅圓形徑五寸作者傳来未詳但し天平元己已年九月鐫し奉りたるものと申傳ふ)、神像一軀(品質青銅徑四寸五分・以上の神楽鐫形あり・作者傳来未詳但し日本武尊にして、天平元己已年九月鑄造し奉りたるものなりと申傳ふ)、太刀一口(長二尺五寸作者不明天文年中北條氏直奉納)。(市原郡教育會編纂「市原郡誌」より)
境内掲示による五井大宮神社の由緒
社伝によると、大宮神社の社名は広大な境内に由来し、鎮座は景行天皇の御代、日本武尊が御東征された折の御創建と伝えられる。
その後、治承四年(一一八〇)に源頼朝が当社に参詣し、奉幣祈願をしたという記録がある。また、小田原の北条氏が戦勝祈願のため太刀一振を奉納している。
江戸時代には開運・殖産・農業・漁業の守護の御神徳により、近隣二十八村の総鎮守として庶民の信仰を集めた。
現在の御本殿は、三間社流造りで、棟札などには江戸時代に数度にわたる改修が行われた記録が残されている。
なお、現在の拝殿は昭和三十九年の再建、平成八年には翼殿が増築された。その時、拝殿の天井に四季の絵を始めとする絵画が奉納された。(大宮神社再建記念碑より)
五井大宮神社の周辺図