海保神社|大塚ばやし
海保神社の概要
海保神社は、市原市海保にある神社です。海保神社は、白鳳2年(673)に譽田別尊を祀り創建したと伝えられます。江戸時代に至り小出越中守墳墓の東にあたる当地に遷座、大正4年には海保の村社日枝神社を合祀、当社が村社となり社号を海保神社と改めています。当社祭礼に奉納される「大塚ばやし」は、千葉県無形文化財に指定されています。
社号 | 海保神社 |
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祭神 | 譽田別尊、大山咋尊 |
相殿 | - |
境内社 | - |
祭日 | 例祭日3月15日 |
住所 | 市原市海保879 |
備考 | 旧村社 |
海保神社の由緒
海保神社は、白鳳2年(673)に譽田別尊を祀り創建したと伝えられます。江戸時代に至り小出越中守墳墓の東にあたる当地に遷座、大正4年には海保の村社日枝神社を合祀、当社が村社となり社号を海保神社と改めています。
「市原郡誌」による海保神社の由緒
八幡神社
東海村海保字八幡臺にあり譽田別尊を祀る村社なり、人皇四十一代天武天皇の御宇白鳳二年己酉八月海保郷鎮座故に該地を名けて八幡臺と云ふと、後六十九代後一條天皇長元四年辛未八月再建すと云ふ、其後百二代後花園天皇永享元年己酉年八月十五日又再建すと云ふ、又一説によれば永享元己酉八月十五日海上與市衛門尉賢胤の祀る所其祖先千葉介常胤は秩父太郎重弘の女を娶り重弘常胤の武功を歎美し白旗一流を常胤に授け、且つ告げて曰く此の旗は源将軍義家奥州征伐の時吾が祖父武綱先鋒をなして數々功あり、故に源義家より武綱に給はるの一流なり今足下源右衛佐殿の先鋒をなす故に此白籏を譲ると常胤莞爾として之を受け其旗を千葉氏より海上の家に傳ふ、賢胤此を海保殿の塚に蔵めて八幡宮と配祀す、其後地頭小出越中守に請ふて宮を墳墓の東に遷して現今の宮を新に造營し、當所の鎮守と崇め奉る、時に明暦二丙辰年なり、而して海上氏故ありて霜崎氏と改めたりと云ふ、爾来八月十五日を祭日となす、而して神社舊記の徳川氏時代に至り、小出越中守墳墓の東(今は八幡臺と改正す)に遷座せしめ祠宇を造營せりとの傳記と符合するを見る此後九月十五日に祭日を改め今に至ると云ふ、大正元年より十月十五日の學校記念日と同日に改む、本社及拝殿建坪十一坪を有し、華表・高麗狗・手洗鉢・燈籠各一箇を有し官有地九百卅六坪の境内老松の密林を成し地域高爽なり。(「市原郡誌」より)
「千葉県神社名鑑」による海保神社の由緒
白鳳二年(六七三)八月の創祀で、当時は八幡宮と称した。長元四年(一〇三一)八月及び永享元年八月一五日に再建し、以来八月一五日を祭日とした。江戸時代に至り小出越中守墳墓の東に遷座し、社殿を造営して祭日を九月一五日に改めた(現在地を八幡台と称す)。明治元年社名を八幡神社と改称。同四五年祭日を一〇月一五日に改める。大正四年二月二四日同所字山王下村社日枝神社を合祀す。同年一一月二日社名を海保神社神社に改める。日枝神社(祭神大山咋尊)は宝徳三年(一四五一)山王台に創祀され、山王宮と称し、四月初申の日を祭日としていた。現在海保神社の例祭日は三月一五日である。(「千葉県神社名鑑」より)
海保神社の周辺図
参考資料
- 「千葉県神社名鑑」
- 「市原郡誌」