菊間八幡神社|市原市菊間の神社
菊間八幡神社の概要
菊間八幡神社は、市原市菊間にある神社です。菊間八幡神社は、菊間国造の後裔白鳳2年(674)日本武尊・武甕槌尊の二柱を奉斎、治承4年(1180)源頼朝が鎌倉の若宮殿より大鷦鷯尊の御分霊を奉遷したといいます。徳川家康の関東入国に際して天正19年(1591)社領20石の御朱印状を拝領、明治維新後には村社に列格していました。
社号 | 八幡神社 |
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祭神 | 日本武尊、大鷦鷯尊、武甕槌尊 |
相殿 | - |
境内社 | 木兎社、日枝神社、高良神社、子安神社、淡島神社 |
例祭日 | 4月13日・10月9日 |
住所 | 市原市菊間3169 |
備考 | - |
菊間八幡神社の由緒
菊間八幡神社は、菊間国造の後裔が白鳳2年(674)日本武尊・武甕槌尊の二柱を奉斎、治承4年(1180)源頼朝が鎌倉の若宮殿より大鷦鷯尊の御分霊を奉遷したといいます。徳川家康の関東入国に際して天正19年(1591)社領20石の御朱印状を拝領、明治維新後には村社に列格していました。
「市原市史」による菊間八幡神社の由緒
八幡神社
治承四年(一一八〇)源頼朝の祈願で鎌倉より分祀。天正十九年(一五九一)、徳川家康御朱印高二〇石寄進。境内に神楽殿がある。境内は保全地区に指定され「大いちょう」が繁る。手水石(寛文八年<一六六八>四月造立)がある。(「市原市史」より)
「千葉県神社名鑑」による菊間八幡神社の由緒
天武天皇の御宇白鳳二年、久久麻国造(久久麻は今の菊間)が日本武尊・武甕槌尊の二柱を奉斎、治承四年源頼朝公が東国鎮護祈願のため鎌倉の若宮殿より大鷦鷯尊の御分霊を奉遷し、神田数十町歩を寄進され、社号を若宮八幡宮と改称された。天正一九年一一月徳川家康より皇国鎮護、東国守護、武運長久のため高二〇石を寄進された。維新の際徳川家代々の御朱印御証文等は奉遷し、明治四年太政官達により八幡神社と改称した。(「千葉県神社名鑑」より)
「稿本千葉縣誌」による菊間八幡神社の由緒
八幡神社
同郡菊間村大字菊間字若宮に在り、境内二千四百七十四坪、祭神は日本武尊・武甕槌命なり。社記に云ふ、菊麻國造大鹿國直の後孫白鳳二年癸酉三月十三日始めて之を祀ると。治承四年源賴朝、大鷦鷯尊を合祀して若宮と稱し、神田若干を寄附す、天正十九年徳川家康も亦更に朱印地二十石を寄附す。社殿荘厳にして境内風致あり、境内末社九座・境外末社七座あり。明治三十九年十二月幣饌料供進指定。(「稿本千葉縣誌」より)
菊間八幡神社所蔵の文化財
- 八幡神社社殿附棟札(市原市指定文化財)
- 木造随身立像(市原市指定文化財)
八幡神社社殿附棟札・木造随身立像
本殿は、三間社流造、拝殿は間口三間、奥行き三間の入母屋造です。本殿周囲には延長二十七間の玉垣が廻り、拝殿との間には一間一戸の瑞門があるなど、古式の神社配置様式を留めています。本殿・瑞門・玉垣は延享五年(一七四八)、拝殿は天保四年(一八三三)の建造と棟札などに記されています。それぞれ建造当初の形態をよく保った本格的な神社建築です。
木造随身立像は、貴人の身辺警護にあたる武官の姿を表し、おそらくは腰に刀を佩き、手には弓があったものと思われます。二体ある随身立像は、カヤ材の一木造で像高は各八九.九センチ、八八.四センチあります。風化により、表面の剥落や両手足先の欠失部分があります。簡素な彫法、奥行きのある頭体部がゆるやかな曲面を示すあたりに、平安風の趣を留めていますが、像の彫り方やつくり方の特徴から、十三世紀の作と推定され、全国的に見ても希少な随身像の古例です。(市原市教育委員会掲示より)
菊間八幡神社の周辺図
参考資料
- 「市原市史」
- 「千葉県神社名鑑」