郡本八幡神社|市原市郡本の神社

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郡本八幡神社|市原市郡本の神社

郡本八幡神社の概要

郡本八幡神社は、市原市郡本にある神社です。郡本八幡神社は、天平宝宇4年(760)の勧請と伝えられ、歴代領主の崇敬を集め、応永(1394-1428)・長禄(1457-1460)銘等の神鏡を所蔵していたといいます。江戸期には井上筑後守が社殿を元和7年(1621)改築し、郡本・藤井・門前・西野谷の四ヶ村(市原郡本郷)の鎮守とされていました。明治維新後の社格制定に際して村社に列格しています。

郡本八幡神社
郡本八幡神社の概要
社号 八幡神社
祭神 譽田別命
相殿 -
境内社 子安神社・出羽三山神社・稲荷神社
例祭日 4月13日・10月9日
住所 市原市郡本1-430
備考 -



郡本八幡神社の由緒

郡本八幡神社は、天平宝宇4年(760)の勧請と伝えられ、歴代領主の崇敬を集め、応永(1394-1428)・長禄(1457-1460)銘等の神鏡を所蔵していたといいます。江戸期には井上筑後守が社殿を元和7年(1621)改築し、郡本・藤井・門前・西野谷の四ヶ村(市原郡本郷)の鎮守とされていました。明治維新後の社格制定に際して村社に列格しています。

「市原市史」による郡本八幡神社の由緒

八幡神社(郡本)
天平宝宇四年(七六〇)勧請という。元和七年(一六二一)八月領主井上筑後守社殿改築、現社殿の建立年代不明(県の緊急調査の結果)手水石は延享元年(一七四四)造立、狛犬は延享五年造立である。(「市原市史」より)

「千葉県神社名鑑」による郡本八幡神社の由緒

孝謙天皇の御代天平宝宇二年の勧請。以来遠近の別無く崇敬者が多い。元和七年八月社殿を改築、この際領主井上筑後守の命により改めて郡本・藤井・門前・西野谷の四ヶ村の鎮守となる。当時は伊知波良氷本郷の八幡宮と称した。(「千葉県神社名鑑」より)

「市原郡誌」による郡本八幡神社の由緒

八幡神社
本村郡本區字宮にある村社にして譽田別命を祭る、社傳に孝謙天皇天平寶宇二年秋十二日(皇紀一四一九年)勧請にて爾後武将の御崇敬厚く、殊に當時領主井上筑後守最も信仰深く、元和七年八月(皇紀二二八一年)社殿改築即ち今の本殿なり、其當時は伊知波良氷本八幡宮とあり、末社、道神社には猿田彦命を祭り、文政十一年戊子八月(皇紀二四八八年)の創立にして本社々殿に現存する神鏡及額面古代神輿等には記事あり、神鏡一面には應永庚申九月二十九日、同他の鏡面には長禄三乙卯十二月吉日(皇紀二一一七年)及び又他の鏡面には正徳丙申年八月、横額面には元禄三甲午歳月五月十五日(皇紀二三五〇年)、山城國鳩峰石清水額寫眞す、又古代神輿には元文四年六月吉日(皇紀二三九九年)とあり、(市原村誌)境内は八幡宿水田平野を東に過ぐること二十町能満の丘陵起こりて進むこと五六町なれば、左方高地を能満臺と稱し、右方一帶の平坦地は郡本區に屬す、地は畑のうねりの僅かなる起伏を有するのみにして平坦砥の如く、丘の下遠く東京湾の細波洋々たるを望見し得べし、此平坦地の中央は本社境内にして樹木鬱蒼たり、主として松樹なれども杉樅等交錯せり、數年前までは密樹天を摩し晝尚ほ暗く神気蒼然として人を襲ひ、社の附近の通行人をして一種凄気に堪えざらしめしと云ふ、神社は拝殿と本殿の二棟より成る、昨年修理を加へたるも過去の構造をたがへず拝殿間口五間・奥行三間半、本殿は三間に二間半にして社殿は紅に染め本殿は墨き板の扉固く閉ぢ、前方及び左右側に廊下を廻らす、社前に最も古き鐘一つあり、文字摩滅して僅かに次の數辭を讀むべし。(以下省略)(「市原郡誌」より)


郡本八幡神社の周辺図


参考資料

  • 「市原市史」
  • 「千葉県神社名鑑」
  • 「市原郡誌」