松崎春日神社|市原市松崎の神社
松崎春日神社の概要
松崎春日神社は、市原市松崎にある神社です。松崎春日神社は、大同元年(806)左大将棟梁卿が夷征伐之追討使として東国下向に祭祀、三笠山春日四所大明神を当地に勧請したことが旧記に残されているといいます。(該当年代の左大将は藤原内麻呂で東国征伐はなし、大同元年以前には坂上田村麻呂がアテルイとの戦いで3度奥州へ下向)。朝敵征伐後には神田を受領、領主東條氏(?)の崇敬を受けてきたといいます。明治維新後の社格制定に際し、村社に列格していました。
社号 | 春日神社 |
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祭神 | 天兒屋根命 |
相殿 | - |
境内社 | - |
例祭日 | 10月15日 |
住所 | 市原市松崎859 |
備考 | - |
松崎春日神社の由緒
松崎春日神社は、大同元年(806)左大将棟梁卿が夷征伐之追討使として東国下向に祭祀、三笠山春日四所大明神を当地に勧請したことが旧記に残されているといいます。(該当年代の左大将は藤原内麻呂で東国征伐はなし、大同元年以前には坂上田村麻呂がアテルイとの戦いで3度奥州へ下向)。朝敵征伐後には神田を受領、領主東條氏(?)の崇敬を受けてきたといいます。明治維新後の社格制定に際し、村社に列格していました。
「千葉県神社名鑑」による松崎春日神社の由緒
創立年代は詳らかでないが、明治に入って村社となる。(「千葉県神社名鑑」より)
「市原郡誌」による松崎春日神社の由緒
春日神社
舊本記に曰く、上總國養老柵市西莊松崎郷、春日大明神は、人皇五十一代平城天皇の御宇大同元年(皇紀一四六六年)左大将棟梁卿東夷征伐之追討使として關東に下向あり、其の砌朝敵退治の爲め御祈願大和國添上郡三笠山春日四所大明神を此の地に遷し勧請し奉る、抑々此の神社は天兒屋根命武雷命天照皇大神也、斯て不日にして朝敵亡びしかば叡威ありて奉供の田數頃を給ふ、民呼んで祭田といふ、毎年九月十五日を以て祭典を執行神前に於て天下泰平五穀豊穣の御祈禱あり、其の後東條氏の南總を領する至て代々の渇仰淺からず、神社の結構美観を極むと云ふ、(因に記す此の時の遺跡大城馬場的場等の名今に現存す)、斯の如く靈社たりしといへども、物換り星移り數百年を經て、神輿毀敗し小祠僅に存するのみ。(市原郡教育會編纂「市原郡誌」より)
松崎春日神社の周辺図