前廣神社|三代実録所載の式外社
前廣神社の概要
前廣神社は、市原市西広にある神社です。前廣神社は、弘仁年間(810-823)の勧請と伝えられ、貞観10年(868)に從五位下の神階を授けられたことが「三代実録」に記載される社です。江戸期には三島大明神と称されていたものの、明治維新後の神仏分離令に際して前廣神社と復号、明治30年地内の諸社を合祀、村社に列格していました。
社号 | 前廣神社 |
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祭神 | 大山祇命 |
相殿 | - |
境内社 | 子安、疱瘡、湯殿、香取等 |
例祭日 | 10月17日 |
住所 | 市原市西広6-14-13 |
備考 | 式外社 |
前廣神社の由緒
前廣神社は、弘仁年間(810-823)の勧請と伝えられ、貞観10年(868)に從五位下の神階を授けられたことが「三代実録」に記載される社です。江戸期には三島大明神と称されていたものの、明治維新後の神仏分離令に際して前廣神社と復号、明治30年地内の諸社を合祀、村社に列格していました。
境内石碑による前廣神社の由緒
前廣神社の由来
前廣神社は、弘仁年間(西暦八一〇-八二三)に此地に勧請されたと伝えられ清和天皇の御代、貞観十年(八六八)九月十七日從五位下を授けられた事が「三代実録」巻十五や「類聚国史」巻十六に記載されている。
この由来に基づき從五位下を授かった旧暦の九月十七日には特に大神の日々の御加護を感謝し初穂を捧げて祭典が営まれる。御祭神は大山祇命で神威あらたかなる山海神として全国各地に祭られている。
本社は、江戸時代に一時社号を三島大明神と称されていたが明治元年(一八六八)の神仏分離令により元の社号に復した。明治二十年には近隣に鎮座していた、日宮・大宮・子安・日枝・香取・天・湯殿山・白幡の各神社が合祀された。
鎮座以来千百有余年の永きに亘って西広地区の氏神様として郷民の崇敬を集め五穀豊穣・家内安全等の祈願がなされて来た。本社の社殿は、古くは天和三年(一六八三)と元文元年(一七三六)に再建されており、現社殿は昭和十二年(一九三七)に新築されたものである。以来六十有余年、この間、幾度が補修を重ね今般平成十年(一九九八)春、氏子相計らい社殿瓦屋根を銅板葺に改修するため、前廣神社改修工事委員会を組織し奉加金を募り、本石碑背面記載のとおり敬神の誠を得て改修工事の実施に至った。(境内石碑より)
「市原市史」による前廣神社の由緒
前広神社(西広)
国史現在社、貞観十年(八六八)九月十七日正六位上となる。手水石は寛永六年(一八五三)五月造立。庚申塔は宝永七年(一七一〇)十月の造立である。(「市原市史」より)
「市原郡誌」による前廣神社の由緒
前廣神社
三代實録に清和天皇貞観十年丁羊九月十七日正六位上前廣へ授と云ふ(「市原郡誌」より)
「千葉県神社名鑑」による前廣神社の由緒
鎮座年紀未詳だが、『三代実録』に「清和天王貞観十年丁羊九月十七日正六位上前広神社ヘ授ク」とある。明治三〇年一一月、日宮神社・大宮神社・日枝神社・香取神社・天神社・子聖神社・湯殿神社・白幡神社を合祀。(「千葉県神社名鑑」より)
「稿本千葉縣誌」による前廣神社の由緒
前廣神社
同村大字西廣字上原に在り、境内二百二十坪、祭神は大山祇命、創建年月詳ならず。國史に據れば貞観十年九月十七日正六位上前廣神に從五位したを授くとあり、其の古社たる知るべし。(「稿本千葉縣誌」より)
前廣神社の周辺図
参考資料
- 「千葉県神社名鑑」
- 「市原市史」
- 「市原郡誌」