椎津八坂神社|市原市椎津の神社

猫の足あとによる千葉県寺社案内

椎津八坂神社|市原市椎津の神社

椎津八坂神社の概要

椎津八坂神社は、市原市椎津にある神社です。椎津八坂神社は、日本武尊が東征の際に東夷鎮撫の祈願をしたと伝えられ、城山(須賀山)に鎮座、須賀宮とも稲田の宮とも称され、その後当地に遷祀したといいます。慶安2年には江戸幕府より神領10石2斗の御朱印状を受領、歴代領主の崇敬を集め、椎津村の鎮守として祀られていたといいます。明治2年には社号を祇園牛頭天王社から八坂神社に改称、村社に列格していました。

椎津八坂神社
椎津八坂神社の概要
社号 八坂神社
祭神 建速須佐之男命
相殿 -
境内社 -
例祭日 -
住所 市原市椎津230-1
備考 旧村社



椎津八坂神社の由緒

椎津八坂神社は、日本武尊が東征の際に東夷鎮撫の祈願をしたと伝えられ、城山(須賀山)に鎮座、須賀宮とも稲田の宮とも称され、その後当地に遷祀したといいます。慶安2年には江戸幕府より神領10石2斗の御朱印状を受領、歴代領主の崇敬を集め、椎津村の鎮守として祀られていたといいます。明治2年には社号を祇園牛頭天王社から八坂神社に改称、村社に列格していました。

「市原市史」による椎津八坂神社の由緒

崇神天皇の代に鎮座、始め城山(須賀山)にあって須賀宮と名付け又稲田の宮ともいいその後今の地に遷祀したという。大鳥居(文化九年<一八一二>九月造立優品)狛犬(文政二年<一八一九>造立)手水石(安永二年<一七七三>六月造立)小手水石(慶応元年<一八六五>十月造立)灯篭(天明六年<一七八六>六月願主古川文左衛門義繁造立)現在保全地区に指定され大けやき三本と大いちょうとがある。(「市原市史」より)

「稿本千葉県誌」による椎津八坂神社の由緒

八坂神社
市原郡姉崎町大字椎津字下田に在り、境内二百八十四坪、祭神は素盞嗚尊、慶安二年十月徳川家光神領十石二斗を寄す、椎津村の氏神たり。(「稿本千葉県誌」より)

境内掲示による椎津八坂神社の由緒

八坂神社
当社は往古現存せる椎津城山にありて、御祭神建速須佐之男命を奉祀す。
人皇十二代景行天皇四十年 日本武尊東征の時、東夷鎮撫の祈願さらせられたりと伝ふ。
其の後、現境内地に奉遷し正徳四甲子年十二月二十八日(棟札に記載)社殿を改めて造営す。
高倉天皇の御代、大将軍源頼朝公 武運長久を祈願し木製の獅子を寄進せられたりと伝ふ。
徳川時代に至りても御神徳を仰がれ、慶安二己丑年十月十七日 御朱印地十石二斗を徳川家光公より賜わる。(明治四年太政官布告により上知す)益々将軍家を始め武門武将の崇敬篤かりき。領主水野壱岐守忠韶公より代々鶴牧城の守護神と仰ぎて尊崇最も篤く、年々元旦及び例祭には幣帛を奉られたり。水野肥前守忠順公より御筆社号額並びに紋章入り高張提灯を寄進せられたり。
明治二年御公布に依り祇園牛頭天王社を八坂神社と改号し村社と定められ、人々の崇敬益々深し。
大正十三年五月十六日 東久邇宮厚盛王殿下並びに東伏見宮博英王殿下の御参拝あらせられ幣帛料を賜わる。
昭和三年十一月一日北白川宮多恵子女王殿下並びに朝香宮のぶ(言甚)子殿下の御参拝ありて、御神前に玉串を奉奠あらせらる。
昭和十四年五月十二日、境内地狭隘のため社殿を現位置に移し今日に至る。(境内掲示より)


椎津八坂神社の周辺図


参考資料

  • 「市原市史」
  • 「稿本千葉県誌」