建市神社|三代実録所載の国史現在社
建市神社の概要
建市神社は、市原市武士にある神社です。建市神社は、景行天皇40年(114)日本武尊が東征に際して当地近くにあった小高い塚に休息、土地の民がこれを祀ったと伝えられ、元慶元年(877)には正六位上から従五位下へ神階を授けられた古社です。明治初年、火災のため社殿が焼失、当地に鎮座していた鹿島神社地に遷祀、明治維新後の社格制定に際し、明治4年郷社に列格、明治15年大宮神社を、明治44年日宮神社を合祀しています。
社号 | 建市神社 |
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祭神 | 武甕槌命、大宮姫命、大日孁命 |
相殿 | - |
境内社 | 子安大明神、浅間大神 |
祭日 | 例祭日10月15日 |
住所 | 市原市武士205 |
備考 | 旧郷社、国史現在社 |
建市神社の由緒
建市神社は、景行天皇40年(114)日本武尊が東征に際して当地近くにあった小高い塚に休息、土地の民がこれを祀ったと伝えられ、元慶元年(877)には正六位上から従五位下へ神階を授けられた古社です。明治初年、火災のため社殿が焼失、当地に鎮座していた鹿島神社地に遷祀、明治維新後の社格制定に際し、明治4年郷社に列格、明治15年大宮神社を、明治44年日宮神社を合祀しています。
「市原市史」による建市神社の由緒
建市神社(武士)
元慶八年(八八四)七月十五日従五位下となる。現在武士の鹿島神社に合祀されている。元宮は六〇〇メートル隔てた山上に鎮座していた。明治初年、火災のため社殿が焼失して鹿島神社に遷祀したという。鹿島神社の鳥居は天明元年(一七八一)造立。庚申塔は寛文九年(一六六九)と貞享四年(一六八七)造立とがある。(「市原市史」より)
「稿本千葉縣誌」による建市神社の由緒
建市神社
市原郡市西村大字武士字神戸に在り、境内百坪、祭神は武甕槌命なり。社傳に云ふ、日本武尊の親祭せられし所なりと。元慶八年七月正六位上建市神に從五位下を授けられ、明治六年八月郷社に列せらる。(明治三十九年十二月月幣饌料供進指定)(「稿本千葉縣誌」より)
「市原郡誌」による建市神社の由緒
郷社建市神社
市西村武士にあり、其沿革は(大日本史)光仁帝の御創立(三代實録)元慶(皇紀一五四四年)七月十五日癸酉授上總國正六位上建市神社從五位下云々、延喜年中式外の宮社と定められ、往古より班幣の禮に預る、中古建市大明神と稱す、明治元年三月二十八日太政官達に依り建市神社と改稱す、明治四年七月四日太政達に依り郷社に列せらる、明治十五年八月同所無格社大宮神社を本社に合祀す、同年十月拝殿建設す、同年十月宅地五畝四歩取得す、明治三十八年九月奥宮再建す、明治三十九年四月勅令第九十六號に依り、神饌幣帛料供進神社に指定せらる、明治四十四年十一月同所無格社日宮神社神社本社に合祀す、同日山林二段三畝歩取得す、大正二年三月二十二日山林九段四畝五歩取得す。
由緒
祭神武甕槌命・大宮姫命・大日孁尊(古老の傳説)人皇十二代景行天皇の御宇日本武尊東夷征伐の爲、此地に御降臨小高き塚に御着あらせらる、里の良人等尊を警衛し奉る尊御感悦淺からずして宣ふに、此塚に到り良人を見たりと依つて人見塚と所数、此塚本社の後に在りて今尚ほ人見塚と稱ふ。
(房總志料に云)市原郡に武士村と云ふあり、彼土に山高くして舟行の標となる山あり、山上に古祠あり、按に武士は建市を誤れるなり(日本地理志料十八上云)「・・・」
祭典は毎歳十月十五日神職供進使及び氏子總代共に前日より斎戒す、寶物としては、領主榊原氏代々信仰厚く、年月不詳木太刀二振を献納せらる、明治二十九年四月日清役戰利品二箇下置かる、水晶原鑛のままにて量目六十匁の物一箇及び舊領主多田氏より木太刀一振を献納せらる。(「市原郡誌」より)
「千葉県神社名鑑」による建市神社の由緒
『三代実録』によると、光仁帝の御代の創立で、元慶八年七月一五日、上総国正六位建市神社従五位下を授かる。延喜年中、式外社と定められ、往古班幣の礼に預かる。中古建市大明神と称し、明治元年三月太政官達により建市神社と改称する。同四年七月太政官達により郷社に列せられる。(「千葉県神社名鑑」より)
建市神社の周辺図
参考資料
- 「千葉県神社名鑑」
- 「市原市史」
- 「市原郡誌」
- 「稿本千葉縣誌」