長谷寺|市原市海土有木にある新義真言宗寺院

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長谷寺|市原市海土有木にある新義真言宗寺院

長谷寺の概要

市原市海土有木にある新義真言宗寺院の長谷寺は、大悲山と号します。長谷寺は、聖武天皇より各地に精舎を建立するよう勅語を受けた行基菩薩が、景勝地たる当地に生えていた十一枝に分かれた楠樹から十一面観音菩薩像を造立、大悲山自然寺と称して創建したといいます。その後平将門が堂塔を造立し豊山長谷寺と号していたといいます。その後の戦乱により往時の面影を残すものは皆無となってしまったものの、十一面観音菩薩像は新上総国三十三観音霊場29番となっています。なお、明治8年には当寺が海士有木小学校に供用されていました。市原郡八十八ヶ所霊場10番です。

長谷寺
長谷寺の概要
山号 大悲山
院号 -
寺号 長谷寺
住所 市原市海土有木1643
宗派 新義真言宗
葬儀・墓地 -
備考 -



長谷寺の縁起

長谷寺は、聖武天皇より各地に精舎を建立するよう勅語を受けた行基菩薩が、景勝地たる当地に生えていた十一枝に分かれた楠樹から十一面観音菩薩像を造立、大悲山自然寺と称して創建したといいます。その後平将門が堂塔を造立し豊山長谷寺と号していたといいます。その後の戦乱により往時の面影を残すものは皆無となってしまったものの、十一面観音菩薩像は新上総国三十三観音霊場29番となっています。なお、明治8年には当寺が海士有木小学校に供用されていました。

「市原郡誌」による長谷寺の縁起

豊山長谷寺
海士有木にあり、新義眞言宗豊山派に屬し、往古にあつては稍々名刹たりしが數度の回禄兵難等の爲め全く往時の觀を止めずなりぬ、當山本尊十一面觀世音菩薩の縁起を略記すれば左の如し。
聖武天皇國々に国分寺御建立の後諸國に佛法有縁の勝地を選し精舎建立あるべき由、行基菩薩に勅語あり、菩薩日域を遍歴し蘭若を立つべきの形地を求め給ふて當山に至り、其の形象を見給ふに、西南は川流を洗ひ東北は曠原緩く廻りて誠に絶勝なり、菩薩欣然として暫く澹望し給ふ、然るに此所に六尺有餘の大石あり、大地埋ること其の幾何といふを知らず、此石を抱へて三圍にあまる楠樹あり、枝條割て十數有樹となり宛も十一面の尊像に相同じ、菩薩奇然として徘徊し給ふ、老翁現来し菩薩に告げ給ふに、此楠樹此聖像の御衣木なり尊像を刻彫せば利益無量ならんと、忽に失給ふ、菩薩告に任せ十一面の像を刻せんとて一夕持念し給ふに、此木一夜を經て刀切作略を待たず、自然に菩薩の像と現れ給ふ、誠に希代の靈木なり、菩薩持念力の致す所なれば、即ち此本像を行基の御作と云ふ、在名を有木と云ふは希代の靈木ありと云ふ心なり、去る程に菩薩は件の趣聖武帝に奏し、伽藍を建て大悲山自然寺と號しけり、後平将門和州豊山を寫し佛恩謝徳國家安穏を祈らんと本堂・講堂・五重塔等を造立し、寺院號を改め、關東豊山長谷寺と號し、一國無雙の伽藍たり、爾来數度の回禄兵難等の爲伽藍舊蹟は名のみ殘り皆入烟に埋みけり、當山法會寶物の特筆すべきものなし。(市原郡教育會編纂「市原郡誌」より)


長谷寺の周辺図


参考資料

  • 「市原郡誌」