光善寺|市原市市原にある真言宗豊山派寺院

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光善寺|市原市市原にある真言宗豊山派寺院

光善寺の概要

市原市市原にあル真言宗豊山派寺院の光善寺は、神光山と号します。光善寺の創建年代等は不詳ながら、上総之介光重の一子曽我上総太郎光善が創建したといいます。当寺の薬師堂は天平年間(729-749)の草創と伝えられ、行基菩薩が神亀元年(724)に制作したと伝えられる薬師如来像を奉安、行基菩薩の説法を聴いていた際に八幡大神(飯香岡八幡宮)が腰掛けていたとされる瑞石影向石が遺されています。市原郡八十八ヶ所霊場73番です。

光善寺
光善寺の概要
山号 神光山
院号 -
寺号 光善寺
住所 市原市市原196-1
宗派 真言宗豊山派
葬儀・墓地 -
備考 -



光善寺の縁起

光善寺の創建年代等は不詳ながら、上総之介光重の一子曽我上総太郎光善が創建したといいます。当寺の薬師堂は天平年間(729-749)の草創と伝えられ、行基菩薩が神亀元年(724)に制作したと伝えられる薬師如来像を奉安、行基菩薩の説法を聴いていた際に八幡大神(飯香岡八幡宮)が腰掛けていたとされる瑞石影向石が遺されています。

境内掲示による光善寺の縁起

光善寺薬師堂縁起
言い伝えでは薬師堂は元禄十三年庚辰年(西暦一七〇〇年)迄に九百七十年を経た古い建物です。
また、本尊の薬師如来は聖武天皇の治世の神亀元年申子(西暦七二四年)秋九月十二日に行基菩薩が一夜で造仏したと伝えられております。
当地建立の縁起では光善寺は市原領主曽我稲目末葉で上総之介光重の一子曽我上総太郎光善で、その名を寺号としたと伝えられております。(境内掲示より)

「全国寺院名鑑」による光善寺の縁起

行基菩薩作の薬師如来を安置し堂宇を建立したと伝う。境内に布目瓦の破片が散在。草創は天平年間。(「全国寺院名鑑」より)

「市原郡誌」による光善寺の縁起

該当記載なし(市原郡教育會編纂「市原郡誌」より)


光善寺所蔵の文化財

  • 光善寺廃寺跡
  • 光善寺石燈籠
  • 瑞石影向石

光善寺石燈籠

安山岩製の石燈籠で、高さは約二メートルあります。平面六角形の基壇、複弁の先小花付十二弁を刻む平面円形の基礎など、簡素ながら安定感のある姿を示します。
紀年銘はありませんが、細部の造形の特徴が温水春日神社(厚木市)の応永二十四年(一四一七)銘をもつ石燈籠に類似することから、形態的に室町時代前期の作とみられ、千葉県内の石燈籠では最も古いものと考えられます。
火袋は江戸時代の補作ですが、全体的に残りも良い状態で、このような中世の石燈籠は、関東地方においては希少な存在です。
なお、この地は、奈良時代の光善寺廃寺跡と考えられ、境内地からは、上総国分寺より古い時期の瓦が出土しました。(市原市教育委員会掲示より)

瑞石影向石

光善寺薬師如来縁起及び飯岡八幡宮縁起によれば、聖武天皇の神亀年中に行基(西暦六六八年~七四九年)が衆生救済のため天下を巡歴の途中に当地を訪れて説法を行った。
ある時「戴冠の異人」が現れこの石の上で説法を聴いていたので行基がどなたかと問うと、我は八幡大神であると名のり師の説法で仏の道への成就を願っていると申したので貴意の思いで麦の飯に柳のはしを立てて敬った。
これより飯岡八幡宮の秋祭礼には柳の楯と名付け奉納し、柳楯神事として行われているという説もある。
そこでこの石を瑞石影向石と写す。また麦飯石とも言う。なお行基が献じた麦飯を栽培した麦飯畑が当地にあると言われているが現在は不明である。(境内掲示より)

光善寺の周辺図