光厳寺|市原市大和田にある真言宗豊山派寺院

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泰長山光厳寺|高瀧神社の旧別当寺

光厳寺の概要

市原市大和田にある真言宗豊山派寺院の光厳寺は、泰長山東光院と号します。光厳寺は、建武2年(1335)に創建、法印良秀師が延宝8年(1680)に中興開山、近隣に末寺9ヶ寺を擁する本寺格の寺院だったといいます。明治維新まで高瀧神社の別当寺を勤めていたそうです。光厳寺本堂の欄間彫刻は、「波の伊八」とも呼ばれる初代武志伊八郎信吉の作品で、市有形文化財に指定、また両界大日如来坐像二軀・不動明王坐像一軀も市有形文化財に指定されています。

光厳寺
光厳寺の概要
山号 泰長山
院号 東光院
寺号 光厳寺
本尊 -
住所 市原市大和田380
宗派 真言宗豊山派
葬儀・墓地 -
備考 -



光厳寺の縁起

光厳寺は、建武2年(1335)に創建、法印良秀師が延宝8年(1680)に中興開山、近隣に末寺9ヶ寺を擁する本寺格の寺院だったといいます。明治維新まで高瀧神社の別当寺を勤めていたそうです。

境内石碑による光厳寺の縁起

光嚴寺本堂庫裡増改築建設記念碑
光嚴寺は建武二年西暦一三三五年今から約六五〇年創建され其後幾多の変遷を経て延宝八年泰長山東光院光嚴寺として法印良秀師により中興開山され以来数十代住職により継承された誠に由緒ある寺院であり古くは高瀧神社(当時加茂大明神)の別当寺として権勢を振ったと傳えられる。(境内石碑より)

「稿本千葉県誌」による光厳寺の縁起

泰長山光厳寺(市原市大和田380)
同郡高瀧村大字大和田緑岡に在り、境内八百九十二坪、眞言宗なり、本尊は金胎大日如来にして支院九ヶ寺あり。山城國醍醐三寶院の末派にして小本寺たり、寺傳に云ふ、建武二年八月僧覺知開基すと。(「稿本千葉県誌」より)


光厳寺所蔵の文化財

  • 両界大日如来坐像二軀・不動明王坐像一軀(市指定文化財)
  • 光厳寺本堂の欄間彫刻(市指定文化財)

両界大日如来坐像二軀・不動明王坐像一軀

金剛界大日如来坐像は、像高一・〇四メートル、智拳印を結ぶ。下膊には、両条の銅製環釧をつけ、瓔珞は、銅製で硝子玉をつける。
胎蔵界大日如来坐像は、像高一・〇五メートル、法界定印を結ぶ。瓔珞で環釧は欠失する。
両像とも漆塗りで、髪上には、宝冠をいただき、宝冠には、五如来の木彫小像をのせ、正面、左右には、日天、月天及び宝珠をつける。また、両眼を半眼に閉じ、微笑を含む。造像期は、鎌倉後期か南北朝頃と推定される。
不動明王坐像は、木造寄木造で、像高八八センチ、布張り漆塗りである。眼は玉眼で右眼を開き、左眼を閉じた天地眼といわれる面相をしている。胎内に奉籠願文と胎内仏を蔵し、造像期は、室町時代と推定される。(市原市教育委員会掲示より)

光厳寺本堂の欄間彫刻

光厳寺本堂の正面に取り付けられた欄間彫刻は、三面で構成されている。
中央の「波に龍」は、波間に身を躍らせて宝珠を握る龍の姿が立体的に彫られています。龍の口内には赤彩が残り、保存状態は良好です。
「波に龍」の左右には人物像の欄間が配置されており、向かって左側の経巻を持っている人物が「寒山」、向かって右側の箒を足元に置く人物が「拾得」です。二人は中国の唐代の詩僧です。
中央の欄間の裏側に銘が刻まれており、江戸時代の彫物大工、武志伊八郎信由(初代伊八)によって彫られたものであることが分かりました。初代の武志伊八郎信吉は、その技量に優れ、中でも迫力のある波の彫刻は伊八の作品の特徴で、このため「波の伊八」と呼ばれています。(市原市教育委員会掲示より)

光厳寺の周辺図


参考資料

  • 「市原市史」
  • 「稿本千葉県誌」