稱念寺|市原市八幡にある浄土宗寺院

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稱念寺|市原市八幡にある浄土宗寺院

稱念寺の概要

市原市八幡にある浄土宗寺院の稱念寺は、龍燈山光明院と号します。稱念寺は、大巌寺第二世安譽虎角上人が大巌寺を退隠後に隠居寺として天正3年(1575)に草創、その弟子直蓮社西譽虎童湖心上人(文禄2年1593年寂)が開山したといいます。明治28年の火災に類焼し、什器宝物類を焼失してしまったものの、太平洋戦争後に再建を果たしたといいます。

稱念寺
稱念寺の概要
山号 龍燈山
院号 光明院
寺号 稱念寺
住所 市原市八幡1436
宗派 浄土宗
葬儀・墓地 -
備考 -



稱念寺の縁起

稱念寺は、大巌寺第二世安譽虎角上人が大巌寺を退隠後に隠居寺として天正3年(1575)に草創、その弟子直蓮社西譽虎童湖心上人(文禄2年1593年寂)が開山したといいます。明治28年の火災に類焼し、什器宝物類を焼失してしまったものの、太平洋戦争後に再建を果たしたといいます。

境内石碑による稱念寺の縁起

山門鐘楼再建記念碑
そもそも龍燈山光明院稱念寺は大巌寺第二世安譽虎角上人の草創になる浄土宗の名刹として、本堂 観音堂 地蔵堂 その他諸堂宇を構え、永く檀信徒と共に宗祖法然上人の遺教を守り口称念仏の法灯を継いでいたが、明治年代に至り度重なる火災に見舞われ、本尊阿彌陀如来 聖観世音菩薩の両尊像と、鐘楼堂を残しその外の堂宇及び宝物類悉く焼失した。その後仮堂を建立して両尊像を安置し法会を勤めてきたが、その間唯一残った鐘楼も永い歳月の風雪に耐え兼ねて倒壊の危にさらされたので、修理復旧を図ったが、時正に戦時下であった為実現出来ず、心ならずも再建の日を念じ解体保存するにとどめた。然るにその間戦禍は益々激化し梵鐘は他の金属類と共に、太平洋戦遂行の為供出された。戦後平和の到来により、檀信徒の浄財及び汗の奉仕によって現在の本堂が建立され、山門並びに鐘楼の再建の気運高まり、こゝに高祖善導上人御降誕八百五十年を記念して、広く檀信徒に浄財を仰ぎ両楼の完成を見るに至った。仍って広大なる仏恩と結縁檀信徒各位の厚志に感謝し左の聖牌を掲げる次第である。(境内石碑より)

「市原郡誌」による稱念寺の縁起

稱念寺
八幡宿字觀音町にあり、浄土宗にして大巌寺の末寺なり、天正三年(皇紀二二二五年)四月の創建にして、本尊は阿彌陀如来なり、由緒不詳、明治十四年再建、同廿八年類焼、同三十一年再建現存、建物は堂宇一棟間口九間奥行五間、鐘樓堂一棟一間四尺四方にして寶物等は皆焼失せり、毎年一月二十四日宗祖圓光大師の御忌を七月十五日に大施餓鬼を十月十三四兩日十夜法要を修行す、寺有地二町二段也(市原郡教育會編纂「市原郡誌」より)

「千葉県浄土宗寺院誌」による稱念寺の縁起

大巌寺二世・虎角上人のもとで剃髪受戒した結城の虎童湖心上人の開山とされる(『浄土伝灯総系譜』)。しかし、永く当寺に言い伝えられたことは、虎角上人が大巌寺を退任せられてから、隠居のため当寺を開山したということであり、境内にも虎角上人の開いた念仏道場であるという碑が建っている。大巌寺の末寺であった手がかりとして、大巌寺の古地図が残っている(年代不明)推定するに、開山上人は虎童湖心上人であるが、後援者になったのは師の虎角上人ではあるまいか。(「千葉県浄土宗寺院誌」より)


稱念寺の周辺図