行徳神明神社|市川市本行徳の神社

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行徳神明神社|市川市本行徳の神社

行徳神明神社の概要

行徳神明神社は、市川市行徳にある神社です。行徳神明神社は、金海法印が大永年間に伊勢神宮外宮を勧請して大神宮と称し、江戸川の対岸に鎮座、寛永12年(1635)当地に遷座、欠真間より高谷に至る一四ヵ村の総鎮守だったといいます。江戸時代中期に行徳が1丁目~4丁目と呼ばれる地区に分かれ、現在は5地区の鎮守として五ヶ町祭りが行なわれています。

行徳神明神社
行徳神明神社の概要
社号 神明社
祭神 豊受大神
相殿 -
境内社 -
住所 千葉県市川市本行徳1-10
祭日 10月15日
備考 -



行徳神明神社の由緒

行徳神明神社は、金海法印が大永年間に伊勢神宮外宮を勧請して大神宮と称し、江戸川の対岸に鎮座、寛永12年(1635)当地に遷座、欠真間より高谷に至る一四ヵ村の総鎮守だったといいます。江戸時代中期に行徳が1丁目~4丁目と呼ばれる地区に分かれ、現在は5地区の鎮守として五ヶ町祭(行徳神明神社-下新宿稲荷神社-二丁目-三丁目本行徳八幡神社四丁目神明神社本塩豊受神社-行徳神明神社)りが行なわれています。

市川市教育委員会掲示による行徳神明神社の由緒

行徳神明(豊受)神社
本社は、伊勢内宮(三重県)の土砂を遷し、内外両皇大神宮を勧請したことに始まると伝わります。また当初の所在地は、江戸川対岸の中州(江戸川区篠崎辺り)の地であった可能性もあります(『江戸名所図会』)。
文化七年(一八一〇)に編纂された『葛飾誌略』には、「中州に在る時は小祠也。寛永十二乙亥大社に造立。」とあり、江戸川の中州に本社が所在していた時代には小さく、寛永十二年(一六三五年)に「大社」として造立されたことを伝えます。他にもその過程で行徳地区の十五ヶ村から寄進があったことや、当地あたりに居住していた徳のある山伏をかつて「行徳」と呼び、いつの頃からか地名になったともあります。
現在、この本社を中心に、三年に一度大祭が挙行されています(かつては毎年挙行)。神輿渡御の行事が行われ、大神輿が町内を練廻ります。勇壮な揉み方に特色があり、その継承も試みられています。また、大祭は五ヶ町祭りと呼び、当地(本行徳)の五つの集落がかかわっています。
祭りの開始については、「元文二丁・巳年享保元申年とも田中三左衛門催しについて、祭礼に始めて屋台を出す。町内も此の時四丁に分る。新田とも屋台五つ、新宿客祭りとして屋台以上六つ也。」と記され、十八世紀前半に祭りに屋台が出されたことを伝えます(『葛飾誌略』)。祭りの開始年次は、はっきりしませんが、十八世紀前半に当地(本行徳)が四つにわかれ、新田(現在の本塩)や新宿(現在の下新宿)も屋台を出したようです。(市川市教育委員会掲示より)

「千葉県神社名鑑」による行徳神明神社の由緒

大永年間に、金海法印なる山伏により伊勢外宮を勧請して大神宮と称し、本行徳の鎮守と仰ぐ。当時は江戸川の西方、南葛飾郡篠村大字本行徳中洲に鎮座、寛永一二年現在の地に遷座。またかつて本神社は旧欠真間より高谷に至る一四ヵ村の総鎮守であったともいう。現在は行徳五ヵ町の鎮守である。(「千葉県神社名鑑」より)


行徳神明神社所蔵の文化財

  • 行徳町道路元標

行徳町道路元標

道路元標というのは、大正八年(一九一九)に告示された道路法施行令により、各市町村に道路の起点や終点および町村の位置を示す指標として設置されたもので、道路の等級や幅員を決めるなど、その後の全国にわたる道路整備の基点になるものでした。
市町村役場の近くおよびメインストリートや交差点付近など多くの人の目につきやすい場所に設置され、その様式として大正十一年(一九二二)の内務省令により、石材その他耐久性材料を使うことや〇〇市町村元標と記載する旨が規定されています。
この石造物には「行徳町道路元標」と記されており、発見された場所も行徳街道と成田道でもあった寺町通りと交差する場所で、近くに町役場もあったことから、そのことが窺えます。
協力・市立市川歴史博物館(境内掲示より)

行徳神明神社の周辺図