不知八幡森。市川市八幡にある旧跡・名所
不知八幡森の概要
不知八幡森は、市川市八幡にある名所旧跡です。不知八幡森は、八幡の藪知らずと通称され、入ってはならない所、一度入ったら出てこられない所、入れば必ず祟りがあると恐れられた所で、水戸黄門が万治年間(1658-1661)藪に入り神の怒りに触れたという話が錦絵にされるほど著名だったといいます。藪に入ってはいけないその理由は諸説あるものの、かつては当地で葛飾八幡宮の放生会が行われた地だったのではないかといいます。
旧跡・名所名 | 不知八幡森 |
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みどころ | 名所 |
入場時間 | - |
入場料 | - |
住所 | 市川市八幡2-8 |
備考 | - |
不知八幡森の縁起
不知八幡森は、八幡の藪知らずと通称され、入ってはならない所、一度入ったら出てこられない所、入れば必ず祟りがあると恐れられた所で、水戸黄門が万治年間(1658-1661)藪に入り神の怒りに触れたという話が錦絵にされるほど著名だったといいます。藪に入ってはいけないその理由は諸説あるものの、かつては当地で葛飾八幡宮の放生会が行われた地だったのではないかといいます。
境内掲示による不知八幡森について
江戸時代に書かれた地誌や紀行文の多くが、八幡では「藪知らず」のことを載せています。そして「この藪余り大きからず。高からず。然れども鬱蒼としてその中見え透かず。」とか、「藪の間口漸く十間(約一八メートル)ばかり、奥行きも十間に過ぎまじ、中凹みの竹藪にして、細竹・漆の樹・松・杉・柏・栗の樹などさまざまの雑樹生じ…」などと書かれたりしていますが、一様にこの藪知らずは入ってはならない所、一度入ったら出てこられない所、入れば必ず祟りがあると恐れられた所として記載され、「諸国に聞こえて名高き所なり」と言われて全国的に知られていました。
入ってはいけない理由については、と、いろいろ言われてきました。中でも万治年間(一六五八~六一)、水戸黄門(徳川光圀)が藪に入り神の怒りに触れたという話が、後には錦絵となって広まりました。
- 最初に八幡宮を勧請した旧地である。
- 日本武尊が陣所とされた跡えある。
- 貴人の古墳の跡である。
- 平将門平定のおり、平貞盛が八門遁甲の陣を敷き、死門の一角を残したので、この地に入ると必ず祟りがある。
- 平将門の家臣六人が、この地で泥人形になった。
「藪知らず」に立ち入ってはならないという本当の理由が忘れ去られたため、いろいろと取り沙汰されてきたものではないでしょうか。
またその理由のひとつとして「藪知らず」が「放生池」の跡地であったからではないかとも考えられます。
古代から八幡宮の行事に、「放生会」があり、放生会には生きた魚を放すため、池や森が必要で、その場所を放生池と呼びました。藪知らずの中央が凹んでいることからすると、これは放生池の跡であるという可能性が十分に考えられます。
市川市周辺地域は中世には千葉氏の支配下にありましたが、千葉氏の内紛で荒廃し、八幡宮の放生会の行事が途絶えてしまい、放生池には「入ってはならぬ」ということのみが伝えられてきたことから、以上のような話が作られていったものと思われます。「不知八幡森」の碑は安政四年(一八五七)春、江戸の伊勢屋宇兵衛が建てたものです。(市川市教育委員会掲示より)
不知八幡森の周辺図