海中山了極寺|行徳・浦安観音霊場三十三ヵ所
了極寺の概要
市川市高谷にある浄土宗寺院の了極寺は、海中山と号します。了極寺は、当地の百姓磯貝新兵衛が陰陽師阿波介に師事、建治元年(1275)当地に営んだ草庵を創祀とするといい、然蓮社性譽廓天上人が永禄年間(1558-1569)に中興したといいます。貞享3年(1686)には祐天大僧正が、法然上人の五五〇回忌の法要を当寺で執行したといいます。行徳・浦安観音霊場三十三ヵ所11番です。
山号 | 海中山 |
---|---|
院号 | - |
寺号 | 了極寺 |
本尊 | 阿弥陀如来像 |
住所 | 市川市高谷2-16-4 |
宗派 | 浄土宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
了極寺の縁起
了極寺は、当地の百姓磯貝新兵衛が陰陽師阿波介に師事、建治元年(1275)当地に営んだ草庵を創祀とするといい、然蓮社性譽廓天上人が永禄年間(1558-1569)に中興したといいます。貞享3年(1686)には祐天大僧正が、法然上人の五五〇回忌の法要を当寺で執行したといいます。
「千葉県浄土宗寺院誌」による了極寺の縁起
京都伏見に阿波介という陰陽師がおり、世の無常を悟って、法然上人の御教えに与り一向専修の念彿者となることが出来た。かくして救われた彼は、衆生済度の為の旅立ちを上人にお願いした。上人は彼の殊勝なる願い聞き、座に居合せた御弟子に上人の御姿を写させられたが、時に上人は自ら鏡二面を持たれ、水鏡の前に置いて、前後を見合せられ、不似の個所は、上人自ら訂正せられて阿波介にお渡しになり、この真影を持って、多くの人々を教化せよと仰せられたと伝えられる。そこで、上人の真影を奉持した阿波介は多くの人々を教化しつつ、下総行徳領浮島村(現在の高谷)の百姓・磯貝新兵衛なる者の家に止宿し、村の人々(当時は農漁家七軒と伝えられる)を集め法話した。彼の話に感銘した新兵衛は阿波介の御伴をして東国教化に旅立った。約半年後、中尊寺金色堂に至り、阿波介は上人の真影を西の柱に掛け、端座合掌して往生したといわれる。師を失った新兵衛は、阿波介の志を継いで、陸奥、出羽二ヶ国を巡拝して故郷の浮島村に帰り、真影を本尊と仰いで、草庵を結び、念彿三昧のうち八〇歳で往生を遂げたといわれている(建治元年一二月二五日)。当寺は新兵衛の創った草庵を基としているといわれる。
法然上人水鏡の真影の事が知られるに至り、貞享三年(一六八六)、祐天大僧正に依って、法然上人の五五〇回忌の法要を当寺で執行せられたといわれる。その時書かれた大僧正真筆の塔婆を、たまたま村内に悪疫が流行した際、誰言うとなく塔婆をけずり呑むと、悪病退散すると吹聴せられ、夜中にひそかにけずり取る者が次々に現れだため、塔婆を本堂に安置したといわれ現存する(高-九尺、巾-六寸)。新兵衛が創建した草庵を基として現在に至る。以上は、三六世住職の記録による。(「千葉県浄土宗寺院誌」より)
「市川市内の寺院明細帳」による了極寺の縁起
宗祖円光大師也、正親町天皇永禄二己未年開山廓天、其以後不詳、明治十二年迄三百廿一年ナリ(「市川市内の寺院明細帳」より)
了極寺の周辺図
参考資料
- 「千葉県浄土宗寺院誌」
- 「市川市内の寺院明細帳」