十方山大徳寺|行徳・浦安観音霊場三十三ヵ所
大徳寺の概要
市川市下新宿にある浄土宗寺院の大徳寺は、十方山攝取院と号します。大徳寺は、光誉上人快山直至和尚が元和元年(1615)に創建、祐天上人が下総行脚の際に命を受け、近隣に時刻を知らせる「時の鐘」を知らせていたといいます。行徳・浦安観音霊場三十三ヵ所5番札所です。
山号 | 十方山 |
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院号 | 攝取院 |
寺号 | 大徳寺 |
本尊 | 阿弥陀如来像 |
住所 | 市川市下新宿5-13 |
宗派 | 浄土宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
大徳寺の縁起
大徳寺は、光誉上人快山直至和尚が元和元年(1615)に創建、祐天上人が下総行脚の際に命を受け、近隣に時刻を知らせる「時の鐘」を知らせていたといいます。
境内掲示による大徳寺の縁起
元和元年(一六一五年)、光誉上人快山直至和尚により建立される。東京芝、増上寺の直末である。(境内掲示より)
「千葉県浄土宗寺院誌」による大徳寺の縁起
当山は、大本山増上寺直末で元和元年(一六一五)光譽快山上人により草創せられた。往時は時の鐘の寺として知られ、江戸時代より江東・葛飾地域一帯にわたる庶民の刻限を知る為の唯一のよりどころとして、崇信の的となっていた。その時の鐘は、名僧祐天上人が下総行脚の際、当山に立ち寄られ、上人の命により創められたものである。上人の真跡の御名号・寺号・山号・鐘の免許書類等があったが、明和(一七六四)年間に焼失した。更に明治一八年(一八八五)江戸川航路の蒸気船による沿岸一帯の大火災により、類焼にあい、鐘は若干のヒビ割れとなった。この鐘も昭和一八年(一九四三)秋、大東亜戦争により強制供出の止むなきに至った。従って現在では、鐘楼堂も釣鐘もその姿をとどめない。(「千葉県浄土宗寺院誌」より)
「市川市内の寺院明細帳」による大徳寺の縁起
元和元乙卯年創立、宗祖円光大師、開山光誉快山和尚、時ノ鐘ハ祖天大僧正免許也、二六時中怠ラス撞ク、之六時名号寺号山号鐘ノ免許真筆ニテ当時有之処、明和年中焼失也(「市川市内の寺院明細帳」より)
大徳寺の周辺図
参考資料
- 「千葉県浄土宗寺院誌」
- 「市川市内の寺院明細帳」