結縁寺|印西市結縁寺にある真言宗豊山派寺院

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晴天山結縁寺|印西大師八十八所

結縁寺の概要

印西市結縁寺にある真言宗豊山派寺院の結縁寺は、晴天山と号します。結縁寺は、行基菩薩が全国遍歴の折、当地の白蓮池を臨む勝景地・晴天の際には井戸の中に蓮花を現わすことから、神亀天平年間(724-729)に開創したといいます。爾来法相宗寺院となっていましたが、天慶年間(938-947)に真言宗僧侶が当寺に来住、結縁灌頂を春秋に執行したことから結縁寺と称されるようになったとされます。源平争乱に際して自害した源三位頼政公の家臣で下河辺出身の藤三郎清恒は、頼政公の御首を当地に埋葬、頼政公にまつわる塚も残されています。印西大師八十八所46番です。

結縁寺
結縁寺の概要
山号 晴天山
院号 -
寺号 結縁寺
住所 印西市結縁寺516
宗派 真言宗豊山派
葬儀・墓地 -
備考 -



結縁寺の縁起

結縁寺は、行基菩薩が全国遍歴の折、当地の白蓮池を臨む勝景地・晴天の際には井戸の中に蓮花を現わすことから、神亀天平年間(724-729)に開創したといいます。爾来法相宗寺院となっていましたが、天慶年間(938-947)に真言宗僧侶が当寺に来住、結縁灌頂を春秋に執行したことから結縁寺と称されるようになったとされます。源平争乱に際して自害した源三位頼政公の家臣で下河辺出身の藤三郎清恒は、頼政公の御首を当地に埋葬、頼政公にまつわる塚も残されています。天正年間(1573-1592)頃に焼失し寺宝や縁起など古文書を焼失してしまい、その後漸次衰微、擁していた六坊(安養坊、住持坊、山中坊、瀧本坊、台仙坊、梅本坊)も元禄年間(1688-1704)以後退転し、今は地名のみとなっています。

境内掲示による結縁寺の縁起

晴天山結縁寺の開創は、奈良朝の神亀年間僧行基全国歴遊の砌、この里の小堂に留錫し、天晴るる時白蓮井戸(花井戸)に影現するを観て、仏法東漸瑞相の霊地となし、自ら弥陀三尊の像を謹刻し一宇を建立したと伝える。
結縁寺由来記によると、朱雀天皇の天慶年間真言僧この寺に住し、京都醍醐寺の直流臼井實蔵院末寺等、広範囲の地域民衆を対象に春秋二季に渡り大掛かりな結縁灌頂を修し、結縁寺の名起こり、六坊の成立を促し結縁寺の繁栄を確かなものにしていった。
当時結縁寺に六坊あり、安養坊、住持坊、山中坊、瀧本坊、台仙坊、梅本坊がそれで今も地名に残る。
伝承によると、治承の兵乱に源三位頼政公宇治に生害し、家臣その御首を携え、名馬に騎乗して東国に逃れ、この地に来り休息の折、御首俄かに重く進退の自由を失いたるにより、この里に御首を葬り自ら剃髪して住僧となり、主の菩提を弔ったという。名馬また斃れこれを埋めて名馬塚と名づけたといわれる。
大永の頃、「大比丘尼善智関東三十三度巡礼結願依夢告此所寂」と刻銘のある入定塚霊碑が熊野神社の石段上り口下に安置されている。
天正年間当山焼失し、什宝延喜等灰燼に帰したが、不動明王像が難を免れたという。
江戸期の『霊界年鑑』『真言三部書』の貴重な文書が所蔵されている。
江戸時代正保年間、江戸幕府キリシタン奉行井上筑後守が結縁寺の領主となり、頼政公供養のため、五輪塔を奉納し、遺物として注目されている。 (「稿本千葉縣誌」より)

「印旛郡誌」による結縁寺の縁起

結縁寺
結縁寺村座外手にあり眞言宗にして晴天山と號す大日如来を本尊とす天平年中の開創とす今荒廢して昔日のおもかげなしと雖幽邃閑雅の一部落にして唯何となく古代の歴史を語るが如き威あるを覺ゆ堂宇間口七間奥行六間境内七百四十五坪(官有地第四種)あり住職は大野快寶にして檀徒二百六十二人を有し管轄廳まで六里廿八街二十四間とす(寺院明細帳)
〇(利根川圖志云)抑晴天山結縁寺は人皇四十五代聖武天皇神龜年中行基僧正の草創と云ふ本堂南向六件よん緜本尊阿彌陀佛は行基僧正の作側に金像の不動尊を安置す御丈二尺餘(嘉元元九月十五日願主權律師瀧高)といふ鐫あり新義眞言臼井寶蔵院の末寺なり境内に花井戸扇の芝あり鐘出現の池は本堂の向にあり一説に其の後治承の兵亂に源三位賴政平家のために生害し從臣下總國の住人下河邊藤三郎清恒といふ者御首を負来り此所に葬り奉り剃髪して一宇を建給仕したまふと云ふ
賴政塚 本堂より辰巳の方三町斗山の上にあり
名馬塚 本堂より未の方二町斗にあり櫻の大木有て道路を覆ふと雖公役も其の木をさまたげずと云ふ
入定塚 本堂の側にあり傳伊勢國住人佐藤民部と云ふ者の娘賴政公の墓を尋ね此所に来り入定すと云ふ石碑に大比丘尼善智入定伊勢國の住人□□□□娘大永六丙戌年二月十八日享保九年造立と見ゆ
賴政石塔 本堂より左少し奥の方にあり高四尺餘五輪なり文字摩滅して不明傳ふ正保の比井上筑後侯建てし所なりと
坊大仙坊鵼見坊 古く梅本坊と云ひしよし治承の頃斯改めしと云ふ
天正の頃當山焼失して寺寶縁起殘らず灰燼すと云ふ又云此里は往古京都の官流飯岡豊後守存繼といふもの天平年中此里に来り開發せし地なりと云ふ飯岡家今猶存す
〇(新編佐倉風土記云)在結縁寺村神龜年中行基開之安自刻阿彌陀佛舊風土記曰古置僧坊六曰大仙曰安養曰山中曰瀧本曰地徳又有二堂曰賴政曰鵼見此所以守賴政墓而今皆廢焉寺有古鐘銘曰應安三庚戊二月九日勧進沙門法橘榮泉以其破壊天和三年癸亥革鑄云寺巽三町許有源賴政墓傳謂治承四年源賴政敗死從臣下河邊藤三郎清恒負具首来于建一宇剃髪而擧此此説在後今所存塔者正保之頃井上筑後侯建之云
〇(下總國舊事考云)結縁寺賴政墓上有元享斷碑不動尊銅造識曰「嘉元三年願主權律師瀧泉」書法優美可觀又明和二年改鑄梵鐘載古鐘識云「應安三庚戊勧進沙門法橘榮泉」(佐倉風土記云天和三年改鑄據此明和係三鑄)
〇同寺には古より豊島紀伊守の持ち来りて本寺に奉納したりと稱する金の蟇あり大に同類を呼ぶ力あり故に毎年春夏の交數萬の蟇寺院境内に集合し聲四隣に徹することありと傳ふ區民之を蟇合戰と稱し老幼男女之を見るもの絡繹として市の如しと云ふ利根川圖志源賴政の碑文不明と稱すれど今舊記によれば(碑文省略)
〇(日本名勝地誌云)結縁寺は晴天山と號す船穂村大字結縁寺村にあり聖武天皇の御宇神龜年間行基僧正の草創せし所にして同僧正の作に係れる阿彌陀佛を本尊とし且つ傍に長さ二尺余なる不動尊の金像を安置す宗旨は新義眞言宗に屬し本堂の廣さ凡そ六間四面に至る境内に扇の芝花井戸あり又源三位賴政塚といへる者又び名馬塚なる者寺の右方及び背後の山上に在り佐倉風土記に云々(中畧)昔此寺幾多の僧坊近傍に散在し寺門甚だ隆昌なりしと云ふと雖天正の頃火災に罹り寺寶縁起等と共に皆焼失して大に衰毀に歸し今僅に地名に據つて安養坊、住持坊、山中坊、瀧本坊、大仙坊、鵼見坊等の古址を認むるのみ
〇(同寺縁起云)抑爰の印旛郡結縁寺の濫觴を尋るに行基の草創といふべし人王四十五代聖武天王神龜天平の比行基菩薩日本旋歴の時此里に至り少堂通夜し四方の景色を見るに面前の白蓮池誠に絶景の靈地なり幸草堂に本尊なし吾今彌陀三尊を彫刻して此少堂に安置すべし傍に又奇怪の井有天晴る時は井中に蓮花の影を現す是故に里俗花井戸という亦は鏡井ともいふ是佛法東漸の瑞相の地なり三旬余日錫を留て彫工既に成る然るに此寺を晴天山と號する事は晴天の日井戸に蓮花の影を現す故に晴天山といふ二百有余年法相宗の僧住居す朱雀天皇天慶年中始て眞言の僧住して春秋二季結縁灌頂を執行此故に又結縁寺といふ也其後治承の兵亂源三位賴政爲平氏生害し從臣下總國の住人下河邊村藤三郎清恒といふ人御首を負笈して此寺に来休息し給ふ俄に御首重く身体自由ならず是を三位の隠れ家なりと住僧を賴み此深山に御首を葬り奉る清恒剃髪して一宇を立給仕し給ふ大字御所作といふ所に木の下影の靈を祭り今名馬塚是なり此塚の櫻は折人必障り有其比此寺に六坊有り其舊蹟今に顯然たり正保年中の比井上筑後守此の里を領して三位の墓を深くうたかひ真偽をたださんと人歩をあて是を穿しむ山林俄に震動して君臣恐怖る終に其源底を見ず退去して其罪を懺悔して碑を立供養す今花井戸の側に有年號摩滅して詳ならず天正の頃當山焼失して縁起寶物一時に灰燼す古佛は不動明王有り年號切付有勢州の住人佐藤民部といふ人の娘賴政公の墓を尋此里に来り入定す今彌陀堂の側に入定塚あり大永年中の比なり伊勢源氏の餘類と傳申ふ元禄以来六坊退轉して其舊蹟のみ有今里俗の傳る所を記す古縁起焼失して開基文明ならず今其大檗を述る而已安養坊、住持坊、山中坊、瀧本坊、大仙坊、鵺見(坊古謂梅本坊治承之后鵺見改名)以上六坊(此は結縁寺の什物と稱する軸一尺余兩端には八角の水晶を嵌め始めには錦の蓮花の畫終には塚といふ字一字みゑて善光寺詣の如き金箔の畫あり長四尺余) (「印旛郡誌」より)

「稿本千葉縣誌」による結縁寺の縁起

晴天山結縁寺
同郡同上(印旛郡舊印旛郡)船穂邑大字結縁寺字外手に在り、境内七百四十五坪、眞言宗なり。傳へ云ふ、神龜年中僧行基創建し、自刻の阿彌陀佛を安置す、往古は境内に六坊二堂ありしと傳ふれども、今は皆廢れたり。寺に銅造不動明王の立像を安置す、銘に嘉元元年九月とあり、大正三年四月十七日國寶に編入せらる。 (「稿本千葉縣誌」より)


結縁寺所蔵の文化財

  • 銅造不動明王立像(国指定重要文化財)
  • 大日如来像
  • 四天王のうち阿・吽二天像
  • 十王画像
  • 真言三部書(即身成仏義・聲字實相義・吽字義)
  • 山門
  • 阿弥陀如来並脇侍
  • 真言八祖画像
  • 手鏡型熊野三山神道具
  • 大和国生駒山歓喜天御供牘
  • 霊界年鑑四帖
  • 地蔵菩薩像
  • 石像五輪塔
  • 頼政公木像
  • 大日塚
  • 花井戸

銅造不動明王立像

結縁寺は行基によって神亀年中(七ニ四~二九)に創建されたと伝えられますが、ここに銅造不動明王立像があります。
像高は四七センチ、裳の前面に「嘉元元年(一三〇三、鎌倉時代末期)癸卯九月十五日願主権律師瀧尊」の銘が刻まれていて、造像紀年の明らかなことは貴重です。
面相は左の上牙で下唇をかみ、右の下牙で上唇をかみしめ、頬を大きく張った憤怒の相です。三鈷剣や羂索を握る両手と胸部は写実的で迫力があります。頭部の蓮華は失われ、頭から出ている衲にそのあとをとどめています。首のまわりには胸飾をとめたと思われる鋲穴があり、腕は肩からはずれます。
像の表面はやや荒れていて、一度火災にあったのではないかと思われます。目にさしてある金泥や光背や岩座は後補です。(印西市教育委員会掲示より)

花井戸

晴天山結縁寺は、奈良時代初期に僧行基によって創建されたと伝えられています。朱雀天皇の頃真言僧がこの寺に住み、結縁灌頂(一般の人に仏縁を結ばせる儀式)を行ったのが結縁寺の名の起こりです。また晴天山とは、よく晴れた天気の良い日に井戸をのぞくと水面にきれいな白蓮の花が咲いているのが見えたところから晴天山と名づけられこの井戸が花井戸と呼ばれていました。
このたび、再び花井戸を復元しました。
平成十九年六月吉日 結縁寺世話人会(境内掲示より)

結縁寺の周辺図


参考資料

  • 印旛郡誌