長楽寺|印西市大森にある天台宗寺院

猫の足あとによる千葉県寺社案内

雲冷山長楽寺|伝慈覚大師創建、印西大師八十八所

長楽寺の概要

印西市大森にある天台宗寺院の長楽寺は、雲冷山寶泉院と号します。長楽寺は、第3代天台座主慈覚大師(栃木県出身)が承和年間(834-848)に創建したと伝えられ、往時には12の僧房を擁していたともいいます。その後衰廃していたものの、森内家吉が応安2年(1369)に諸堂を修復、その際に奉納された鰐口が今も残され千葉県県有形文化財に指定されています。江戸期には佐倉藩主稲葉氏の菩提寺として著名だったといいます。印西大師八十八所8・43番です。

長楽寺
長楽寺の概要
山号 雲冷山
院号 寶泉院
寺号 長楽寺
住所 印西市大森2034-1
宗派 天台宗
葬儀・墓地 -
備考 -



長楽寺の縁起

長楽寺は、第3代天台座主慈覚大師(栃木県出身)が承和年間(834-848)に創建したと伝えられ、往時には12の僧房を擁していたともいいます。その後衰廃していたものの、森内家吉が応安2年(1369)に諸堂を修復、その際に奉納された鰐口が今も残され千葉県県有形文化財に指定されています。江戸期には佐倉藩主稲葉氏の菩提寺として著名だったといいます。また戦前に国宝となっていた観音堂は、昭和25年失火により焼失してしまい、平成元年に再建されています。

「印旛郡誌」による長楽寺の縁起

長楽寺
大森村字前畑にあり天台宗延暦寺派にして雲冷山と號し泉倉寺末なり阿彌陀如来を本尊とす千手院とも寶珠院とも稱し貞観三年比叡山第二祖慈覺大師東巡の折り創立中興開山寶安應安二年二月再建す幕府の頃は稲葉氏の菩提寺たりし爲其の名四方に聞わたるも維新後衰ふ堂宇間口十間奥行七間半鐘樓間口一間半奥行一見半仁王門間口四間通間三間境内三千九百四十五坪(民有地第一種)あり住職は宏海堯泉にして檀徒一千六百三十二人を有し管轄廳まで八里三町とす境内仏堂二宇あり即
一、觀音堂 千手觀世音を本尊とす應安年中慈覺大師の作にして建物間口四間半奥行四間半なり
二、如意輪堂 如意輪觀世音を本尊とす由緒不詳間口四間奥行二間なり(村誌、寺院明細帳)
(中略)
〇日本名勝地誌云長楽寺は雲冷山寶泉院と號す大社村大字大森にあり今其の縁起の大畧に云ふ當寺は慈覺大師の開基にして本堂に同大師の千手觀音を安し多聞持國の二天を脇士とす古へ寺内甚だ繁榮に十二の僧房擔を列ね甍を並べしが中世亂離に會して廢毀應安二年里人森内家吉なる者大に諸堂を修覆せり地勢東南は谷廣く岸高く風聲松樹の梢に響き常に行者の觀念を増し西北は岡平かに浦近く鳥音湖水の浪に和し常に道人の心志を勤む蓋し大師關東巡錫の際此地を一覧し以て浄行練修の勝地となし當寺を草創するに至りしかと (「印旛郡誌」より)


長楽寺所蔵の文化財

  • 梵鐘(千葉県県指定有形文化財)
  • 長楽寺の晩鐘(印西八景)

梵鐘

長楽寺は天台座主三世の慈覚大師によって承和年中(八三四~四八)に創建されたと伝えられますが、ここには大森郷の檀那森内家吉が応安二年(一三六九)に寄進した梵鐘があります。応安二年は足利三代義満が将軍になった翌年です。
梵鐘の高さは八〇・五センチ、口径は四八・六センチで、池の間の上下に型継ぎのあとがあり、三段組で鋳上け、二箇の撞座は縦帯より高く鋳出し、ほとんど摩滅していません。また上帯下帯とも素文で駒爪は五・五センチ、乳は四段四列で欠損がありませんが、龍頭上部は欠失しています。
銘文は三区に十五行百七字で、仏法の興隆や地主の息災延命や寺僧の安穏繁昌や郷内諸人の安泰を祈る意味のことが書かれています。この梵鐘は現在わが国にある梵鐘の中でもきわめてすぐれたものといわれています。
なお、長楽寺の国宝の観音堂は、昭和二十五年、浮浪者の失火により焼失しましたが、平成元年に再建されました。(印西市教育委員会掲示より)

長楽寺の周辺図


参考資料

  • 印旛郡誌