龍腹寺|印西市竜腹寺にある天台宗寺院

猫の足あとによる千葉県寺社案内

玄林山龍腹寺|印西大師八十八所

龍腹寺の概要

印西市竜腹寺にある天台宗寺院の龍腹寺は、玄林山勝光院と号します。龍腹寺は、平城天皇の勅願所として、弘法大師の法弟慈観上人が大同2年(807)に開山、慈雲山勝光院延命寺と号し、24坊、末寺72ヶ寺を擁していたといいます。延喜17年(917)の旱魃に際し降雨祈祷を修行したところ、天に昇りかけていた龍が引き裂かれ、頭部が龍角寺に、尾部は龍尾寺に、腹部は当寺に落ちたことから、天龍山龍腹寺と改めたと伝えられています。元永元年(1118)には千葉常胤が大檀越となり、以後千葉氏の祈願所となっていた他、北條時頼も「普門坊」と称する常行念佛堂を建立寄進したといいます。小田原北條氏が進出してきた際には、千葉氏を援けて北條氏と争おうとしたことから永正4年(1507)覺道は殺害され、本堂・仁王門を残して全山焼失、小田原北條氏滅亡後の天正19年(1591)千葉氏により寺地を当地へ移して再建したものの、元和元年(1615)には千葉家が断絶、現在は地元の信仰により護持されています。印西大師八十八所21番・39番です。

龍腹寺
龍腹寺の概要
山号 玄林山
院号 勝光院
寺号 龍腹寺
住所 印西市竜腹寺626
宗派 天台宗
葬儀・墓地 -
備考 -



龍腹寺の縁起

龍腹寺は、平城天皇の勅願所として、弘法大師の法弟慈観上人が大同2年(807)に開山、慈雲山勝光院延命寺と号し、24坊、末寺72ヶ寺を擁していたといいます。延喜17年(917)の旱魃に際し降雨祈祷を修行したところ、天に昇りかけていた龍が引き裂かれ、頭部が龍角寺に、尾部は龍尾寺に、腹部は当寺に落ちたことから、天龍山龍腹寺と改めたと伝えられています。元永元年(1118)には千葉常胤が大檀越となり、以後千葉氏の祈願所となっていた他、北條時頼も「普門坊」と称する常行念佛堂を建立寄進したといいます。小田原北條氏が進出してきた際には、千葉氏を援けて北條氏と争おうとしたことから永正4年(1507)覺道は殺害され、本堂・仁王門を残して全山焼失、小田原北條氏滅亡後の天正19年(1591)千葉氏により寺地を当地へ移して再建したものの、元和元年(1615)には千葉家が断絶、現在は地元の信仰により護持されています。(天龍山龍腹寺の中坊先蔵寺は、泉倉寺として再建されています)

「印旛郡誌」による龍腹寺の縁起

龍腹寺
龍腹寺村字堂崎にあり天臺宗比叡山派にして中本寺泉倉寺末なり延命地蔵尊(金像)前立勝軍地蔵尊(木像)両脇士不動尊毘沙門天を本尊とす本尊延命地蔵尊は天竺龍樹菩薩の御持佛にして空海上人傳来する所なりと云ふ夐かに創立を尋ぬるに大同二年の創立にして慈雲山勝光院延命寺と號し開山は慈觀上人にして人皇五十一代平城天皇の勅願所也貞和丁巳年七堂伽藍を建立し且寺中二十四坊を構へ七十二ヶ寺を配下とす延喜十七年諸國大旱魃にして奉詔風雨順時の大法を修行せし處一天俄に掻き曇り一聲の雷と共に大雨車軸を流すが如く未の刻より巳の上刻に至り雨止にて天晴る事故の如し不思議なるかな御堂の側に大龍の腹切斷し落てあり大衆等大に怪み此旨趣既に上聞に奏せしかば當山の寺號を龍腹寺と改め賜はり元永元戊戌年千葉常胤大担越と也保安三年十月講堂再建是より千葉家代々祈願所たり弘長元年酉年北條時賴入道常行念佛堂を建立し普門坊を改めて時斎庵と名く故に當山の鐘銘□當山の寺中普門坊建之とあり正安二庚子年鐘樓堂を再建す永正四年秋八月十九日當國合戦の時兵火の爲に諸堂灰燼となり不思議なるかな忽ち大降雨にて本堂仁王門のみ殘りたり其落ち天文十九年庚戊年當寺遺跡已に絶ならんとするに至り領主に於て深く之を歎き寺地を東方に移し新に建立し其名跡を續く元和元年千葉家斷絶の際寺領沒収に相成夫れより永く廢絶の姿に星霜を經ると雖領主代々の祈願所たり享保十二年豪俊法印東叡山末に列坐す堂宇間口七間奥行七間仁王門間口四間半通間二間鐘樓堂九尺四方五重塔當時棟札許にして境二千四百五十坪(官有地第四種)あり住職は高橋泰明にして檀徒三百十五人を有し管轄廳まで八里なり境内佛堂一宇あり即
一、毛堂 本尊不詳寛喜三年五月千葉氏奥方常代君の毛毛髪を収めて創立す建物は四尺四方なり(寺院明細帳)
(中略)
〇(日本名勝地誌云)龍腹寺は本郷村大字龍腹寺村に在り天龍山と號す大同二年弘法大師の奏請に由り其の法弟慈觀に勅し草創せしめられし所にして薬師如来を本尊とす今本堂の側にある地蔵堂は大同年間建立の盡にして構造頗る奇巧傳へて飛弾匠の建てし者なりといひ又山門の二王は左方慈覺大師の作にして右方は湛慶の作なりと傳ふ此の寺も亦建初に在つては七堂伽藍輪奐の美を盡し之を慈雲山勝光寺延命院と名け村内僧坊を置くこと二十有五の多きに及びしが後延喜十七年天か大旱の時釋命上人勅を蒙りて雨を禱るに際し龍大空に死して其の腹部の斷絶したる者地上に堕ちたるより龍腹寺と改號せり永正五年時の主僧覺道なる者千葉氏を勸めて北條氏を伐たんとし自ら兵を寺に聚む北條氏之を聞いて憤怒し乃ち夜寺を襲ひ火を放ちて覺道を殺す是に於て寺廢すること五十余年天文十九年に至り千葉氏再び諸堂を建營せしも猶舊時の十が一に過ぎざりし斯くて又年を閲すること二百五十有余年文正元年に至り偶々火を失し諸堂再び灰燼に委したりと。(「印旛郡誌」より)

「稿本千葉縣誌」による龍腹寺の縁起

玄林山龍腹寺
同郡同上(印旛郡舊印旛郡)本郷村大字龍腹寺字堂崎に在り、境内二千六百八十坪、天台宗上野寛永寺の末派たり。寺傳に云ふ、大同二年僧慈觀七堂伽藍を建て慈雲山勝光院延命寺と號す、當時寺中に二十五坊あり、著名なる大刹にして勅願所たり、延喜十七年勅を奉じ雨を祈りて驗あり、龍腹切斷し大雨に混じて落下す、依て寺號を天龍山龍腹寺と改む、元永・嘉吉の間領主千葉氏寺領を寄附し、堂宇を修築す。永正四年八月主僧覺道千葉氏を援けて北條氏と戰はんと欲し、兵を聚む、北條氏之を聞き兵を潜め夜襲ひて之を燒く、堂宇悉く灰燼となり僅に地蔵堂・仁王門を存するのみ、時に寺僧天龍山の題額を携へ逃れて和泉寺に到り後一寺を建つ、泉倉寺是なり。其の後本寺荒廢に屬せしこと五十餘年、天文十九年康有と云ふもの千葉氏に請うて再建す。文政元年七月復火を失て烏有に歸す、現今の堂宇は舊時に比すれば十の一にも及ばずと。 (「稿本千葉縣誌」より)


龍腹寺所蔵の文化財

  • 梵鐘一(千葉県県指定有形文化財)
  • 奉修補仁王尊像二軀

梵鐘一

総高一〇六・三センチメートル、口径六〇・六センチメートル、池の間の上下に型継のあとがあり、三段組で鋳上げていることがわかります。上帯下帯共に素文(文様のないこと)で、鋳出しの浅い八葉の蓮井の撞座が片方にだけついています。この撞座が一個だけというのは、非常に珍しいものえす。父は四段四列で欠けている所はありません。
本鐘は、紀年がありませんが、その形態から南北朝時代頃の製作と推定されています。
池の間に次の銘文が陰刻されています。
南閻浮堤大日本国関東下総
印西荘龍腹寺玄林山大鐘
書付之作者谷田部三郎兵衛
千葉住人
筆者當寺普門坊賢勝(千葉県教育委員会・印西市教育委員会掲示より)

奉修補仁王尊像二軀

当仁王尊は大同二年(約千二百年前)当区の伝記によれば、左は慈覚大師右は丹慶の作也と之有、一夜に建立せし故に無乳なりと。無乳仁王尊としてその名高く乳に関する願いは速かに成就すと謂う。永正五年国司千葉北條両氏の戦に灰燼と帰し、後五十有余ねん天文十九年千葉氏により再興したるも、後文政元年七月寺僧の不戒火に依り再焼せり。領主稲葉公が再建せしも、又火災に逢い諸堂と共に焼失せり。後当村土井伊作発願主となり近郷より浄財をつのり大佛師高野光慶、杉山宣慶狭隘により嘉永五年六月彫刻を始め、同六年五月完成せるもの也。其後百二十有余年歳月の流れと共に損傷甚しく、昭和四十年代に到りては破損見るに耐へず、部落民の総意によりこの郷土の誇りである仁王尊を修復し、祖先の偉業を讃え更に後世に乳無仁王尊の御尊像を末永く伝へ度、ここに茨城県江戸崎町佛師富岡清吾義範父子(屋号樽見屋)に依頼し、昭和四十九年十二月十四日より同五十二年三月二十日に到る間、富岡父子の綿密なる解体、修理本堅地漆仕上の卓越せる技能の結果立派に修補奉る。(境内掲示より)

龍腹寺の周辺図


参考資料

  • 印旛郡誌