紅龍山東海寺|布施弁天、新四国相馬霊場八十八ヶ所
東海寺の概要
真言宗豊山派寺院の東海寺は、紅龍山松光院と号します。東海寺は、弘法大師(774-835)御作の弁財天を本尊として創建、弘仁14年(823年)勅願所に指定されたという近隣でも随一の古刹で、布施弁天として著名です。新四国相馬霊場八十八ヶ所68番、境内の多宝塔式鐘楼・楼門(山門)は県文化財に指定されています。
山号 | 紅龍山 |
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院号 | 松光院 |
寺号 | 東海寺 |
住所 | 千葉県柏市布施1738 |
宗派 | 真言宗豊山派 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
東海寺の縁起
東海寺は、弘法大師(774-835)御作の弁財天を本尊として創建、弘仁14年(823年)勅願所に指定されたという近隣でも随一の古刹です。
境内掲示による東海寺の縁起
当山は紅龍山布施弁天東海寺と称し、弘法大師御作といわれる大弁財天を本尊とし、開創されし祈願寺である。嵯峨天皇より堂塔多伽藍を寄進され弘仁十四年(823年)勅願所に指定された。本堂は数度の戦火により焼失したが、本尊弁財天を篤信していた時の領主本多豊前守が98名の大名から寄進を求め享保二年(1717年)現本堂を完成。本堂内陣の天井には、それら諸大名の家紋が描かれている。本堂外陣の天井鑑板の竜は狩野探舟の作である。唐風の向拝を持つ三方破風造り総朱塗りの華麗な大本堂である。(境内掲示より)
「柏市史」による東海寺の縁起
布施村字弁才天に所在。紅龍山と号する。江戸時代前期は鰭ヶ崎村東福寺の末寺であったが、宝永七年から江戸護持院(初め東京都千代田区、後東京都文京区に移る)の直末寺に替わった。本尊は伝弘法大師作の弁才天。宝永四年の「布施村除地書上帳」によれば、弁才天・香取大明神・妙見宮・天神宮・第六天・諏訪大明神・十二天・白山権現・雷電(宮)・大日堂・薬師堂・不動堂・観音堂を支配していた。元文二年(一七三七)の「除地改書出帳」には稲荷窪往還端の庚申塚・前谷台天王後の庚申塚・同所の天王社・同所の庚申縁石仏・一三本の庚申塚・会作の庚申塚・前島花野井村境の水神を支配していた。寛保元年の「郷差出帳」には、支配下の除地は堂が大日・不動・観音の三か所、外に道心の住む庵のある薬師堂、東海寺隠居僧の住む庵、支配神社は一一社となっている。(「柏市史」より)
「稿本千葉縣誌」による東海寺の縁起
紅龍山松光院東海寺
同郡同上(東葛飾郡舊南相馬郡)富勢村大字布施字辨財天にあり、境内三千百二十一坪、眞言宗なり。寺傳に云ふ、弘仁十四年三月僧空海創建す、天慶の亂に兵變に罹りしが同三年源經基之を再建し、天文中僧興阿之を中興すと。境内は孤立にして形龜に似たり、俗に龜甲山と云ふ、上に辨天祠あり、石階數十級を上り樓門あり、彫刻甚だ巧なり、最勝閣の額を掲ぐ、左右に二天像を置く、文化七年四月の建立なり。又石階を上ること數級にして祠に至る、方六間、丹髹にして美麗なり、享保五年二月僧秀調の建造せし所なり、左に鐘樓あり、十二稜をなす亦奇構とす、文政十年三月の建立なり。(「稿本千葉縣誌」より)
東海寺所蔵の文化財
- 多宝塔式鐘楼(千葉県指定重要文化財)
- 楼門(千葉県指定重要文化財)
多宝塔式鐘楼
全国でも珍しい多宝塔式の總欅造りである。
墓担は、みかげ石積八角形、その上に十二本の円柱で円形の本体を構成し、その柱頭に十二支の彫刻を配して方位を表している。屋根は入母屋二方破風銅板葺で茨城県つくば市谷田部の名主伊賀七の設計で、その図面は完全な形でその子孫に伝わっている。棟札に文化十五年(1818年)建立とある。(境内掲示より)
楼門
總欅二階建の瓦葺「最勝閣」
楷下に四天王、階上には釈迦三尊を安置する。(境内掲示より)
東海寺の周辺図
参考資料
- 「柏市史」
- 「稿本千葉縣誌」