東福寺|流山市鰭ヶ崎にある真言宗豊山派寺院

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守龍山東福寺|平将門征伐に際して藤原秀郷が祈願

東福寺の概要

真言宗豊山派寺院の東福寺は、守龍山証明院と号します。東福寺は、弘法大師が巡錫の折、当地で薬師如来像を自刻して堂庵を建立したと伝えられ、天慶の乱に際して藤原秀郷が祈願、平将門を征伐できたことから、朝廷より金石を受領したといいます。江戸期には江戸幕府より寺領30石の御朱印状を受領、当地周辺に数多くの末寺を擁していました。下総三十三ヶ所観音霊場2番、江戸川八十八ヶ所霊場1・21・29・44・51・88・89番です。

東福寺
東福寺の概要
山号 守龍山
院号 証明院
寺号 東福寺
住所 流山市鰭ヶ崎1033
宗派 真言宗豊山派
葬儀・墓地 -
備考 -



東福寺の縁起

東福寺は、弘法大師が巡錫の折、当地で薬師如来像を自刻して堂庵を建立したと伝えられ、天慶の乱に際して藤原秀郷が祈願、平将門を征伐できたことから、朝廷より金石を受領したといいます。江戸期には江戸幕府より寺領30石の御朱印状を受領、当地周辺に数多くの末寺を擁していました。

「千葉縣東葛飾郡誌」による東福寺の縁起

守龍山東福寺
流山町鰭ヶ崎字塚の越臺にあり。眞言宗大本寺護国寺末にして、境内坪數三千九百四十五坪、堂宇間數間口六間一尺奥行六間一尺、流山町第一の巨刹にして、本尊は薬師瑠璃光如来弘法大師一刀三禮の靈作なり。
抑當山の由来を温ぬるに大師當山に来りしとき、池中より神龍出現して請て曰く『此處は是れ東方薬師の福田なり故に予久しく此の山を守護せり。貴僧幸に速に佛像を安置し玉へ』とて靈木を捧げたれば、大師受けて此の木を以て親ら佛像を彫刻し、堂を營みて安置す。是即本尊薬師如来にして、于時公認五年大師四十一歳の時なりと云ふ。天慶の乱に秀郷當山に詣てゝ祈願せしに、感應空しからずして首惡誅に伏し、天下太平を唱ふるに及び、秀郷の奏上により、勅して金石を賜ふ。徳川の世に及びて尚三十石の御朱印ありしが、明治維新に際し之を奉飾せり。
境内は坂川耕地に突出せる丘陵の一端にありて、數十段の召階を昇れば二王門あり、鐘樓あり又數百年の老公孫樹は高く天を摩するありて、自ら幽邃の地・茲に渡邊氏の坂川治水碑を見る。眼を擧ぐれば甲武常野の連山蜿蜓として雲際を續り近く曠野に民家の點在するを見る、風光絶佳人をして歸るを忘れしむ。(「千葉縣東葛飾郡誌」より)


東福寺所蔵の文化財

  • 東福寺二十一仏板碑(流山市指定有形文化財)
  • 「俵藤太百足退治の図」絵馬(流山市指定有形文化財)
  • 金剛力士像(流山市指定有形文化財)
  • 阿彌陀如来立像付千体阿彌陀如来立像(流山市指定有形文化財)
  • 紙本淡彩大日如来像(流山市指定有形文化財)
  • 絹本著色道興大師像(流山市指定有形文化財)

東福寺二十一仏板碑

板碑は鎌倉時代から室町時代の石塔婆である。二十一仏板碑は、十六世紀の関東のみで造られ、その数も数十基しか確認されていない。
板碑は当初武士が建てるものであったが、二十一仏板碑山王信仰や、庚申信仰などの民間信仰と結びつき、信者の仲間が造立したと考えられる。(流山市教育委員会掲示より)

「俵藤太百足退治の図」絵馬

俵藤太(藤原秀郷)が琵琶湖の主の大蛇を迫害する百足を退治した伝説から、大蛇が勢田の唐橋で女性の姿となって、藤太に百足退治を頼んでいるところを美しい色彩で描いている。
文久三年(一八六三)渡辺庄左衛門らが奉納している。(流山市教育委員会掲示より)

金剛力士像

像高二メートル七〇センチ、市内では最も大きい像である。山門の中に立って寺院を守り、仁王様ともいわれる。向かって右が目をむき口を開いた阿形像え、左が口を閉じた吽形像である。裳裾や天衣をひるがえし、形相は通常の金剛力士像で、伝統的な表現に従ったものである。(流山市教育委員会掲示より)

阿彌陀如来立像付千体阿彌陀如来立像

像高約九〇センチの中尊阿彌陀如来立像と千体の小ぶりな阿彌陀如来立像で「千仏」と呼ばれている。中尊は来迎印を結び、口を軽く開けるいわゆる「歯吹きの彌陀」でその左右に十段づつ小ぶりの阿彌陀如来が安置される。江戸時代中葉(十八世紀の終わり頃)に造られたと考えられ、当時の信仰を知る貴重な資料である。道路を隔てた北側の奥の院(千仏堂)に安置されていたが、平成十九年修理後本堂近くに移座された。(流山市教育委員会掲示より)

紙本淡彩大日如来像

智拳印を結ぶ金剛界大日如来像である。上方に真言宗の高僧歓光の賛、向かって頭陀嶺山の落款がある。
歓光の没年から文化元年(一八〇四)以前の作品であることがわかる。(流山市教育委員会掲示より)

絹本著色道興大師像

道興大師は空海十大弟子のひとりで、空海の信頼が最も厚く、教王護国寺(東寺)の第二世となった。大師の略歴・業績を記した賛が大師像の上方に書かれ、この賛から元和五年(一六一九)の作と知られる。(流山市教育委員会掲示より)

東福寺の周辺図