禅林山南蔵院|東葛印旛大師八十八ヶ所霊場、下総四郡八十八所霊場
南蔵院の概要
真言宗豊山派寺院の南蔵院は、禅林山慈恩寺と号します。南蔵院の創建年代等は不詳ながら、手賀興福院の隠居寺だったと伝えられ、興福院第三世秀伝(秀尊・文明12年1480年寂)が中興開山したといいます。東葛印旛大師八十八ヶ所霊場72番、下総四郡八十八所霊場72番です。
山号 | 禅林山 |
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院号 | 南蔵院 |
寺号 | 慈恩寺 |
住所 | 千葉県柏市片山97 |
宗派 | 真言宗豊山派 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
南蔵院の縁起
南蔵院の創建年代等は不詳ながら、手賀興福院の隠居寺だったと伝えられ、興福院第三世秀伝(秀尊・文明12年1480年寂)が中興開山したといいます。
「沼南町史」による南蔵院の縁起
当院は、町道沿いのほぼ南北の方角に、細長い境内を有している。創立については詳らかではないが、寺伝によれば当院は手賀興福院の隠居寺であったという。
ところで、当院の中興開山とされる秀尊和尚は文明十二(一四八〇)年七月二十一日の示寂であるが、これは興福院第三世の秀伝の示寂とまったく同一の年月日である。したがって、おそらく秀尊と秀伝とはいずれかの誤写であって、この両者は同一人にほかならないであろう。ともあれ、秀尊は南蔵院の中興開山であるから、すでにそれ以前から寺が存在していたことは確実である。創立者は、興福院の法流開祖として同院に四十年間も住した澄尊(一三〇三寂)か、同寺第二世の亮海(一三九五寂)のいずれかであろうと推定される。いずれにせよ、当院は鎌倉時代末期から南北朝ごろに創立され、そののち一たんは衰微したものの、室町中期には秀尊によって復興されたことが知られる。当院はまた、語教の化行道場としての伝統を有していた。
かっては境内北東側の斜面に欅や杉の大樹があり、槻の根元の井戸からは豊富な清水が湧出し、修行僧の水行に用いられた。この化行は、明治初年ごろまでは存続していたといわれる。
現在の本堂は昭和四十年の改築であるが、旧本堂(七間×五間)は宝永三(一七〇六)年八月二十三日、淳阿和尚四十歳の時の建造であった。就中、中柱六本(六寸角の栂松材守、現在片山青年館に保存)は、本寺興福院本堂の改築に際し、これを払い下げて用いた古材であったという。したがって、この中柱六本は、興福院が寺台から現在の下ノ坊へと移転した江戸初期の時の用材と推定される。また、旧庫裡(七間×三間半)も昭和四十一年に改築されている。
境内の道路沿いには、以前は古木の並木が繁茂していたが、ほとんど伐採された。天神堂前面の天神松も最近枯死し(目通り二メートル五〇センチ、基部は青年館に保存)、現在は昭和十七(一九四二)年八月十日の落雷で大昨裂を起した大杉(目通り二メートル七三センチ)がその名残りを留めている。(「沼南町史」より)
南蔵院の周辺図
参考資料
- 「沼南町史」