龍猛山興福院|大同年間創建、東葛印旛大師八十八ヶ所霊場
興福院の概要
真言宗豊山派寺院の興福院は、龍猛山園城寺と号します。興福院は、古墳時代・律令時代から文化が形成された手賀に所在、大同年間(806~810)に創建、弘仁11年(820)に十一面観音を本尊とし竜猛山無薬院と称して創建したと伝えられます。弘長3年(1263)に新治郡大岩田郷法泉寺の澄尊上人が来山して伽藍堂宇を整備、竜猛山興福院と改称、戦国時代末期の天正7年(1579)には手賀城主原筑前守胤親の帰依を受け隆盛したといいます。天正18年(1590)に手賀城は落城、当寺も消失し、字寺台から当地字下ノ坊(旧手賀城二ノ丸跡)へ移転して再建、竜猛山円城寺興福院と改称、江戸期には末寺11ヶ寺を擁していました。近時、寺基を手賀252-3(興福院平和霊園公園墓地)へ移しています。東葛印旛大師八十八ヶ所霊場75(興福院)・77(旧明王院)・85番、下総四郡八十八所霊場75番、下総三十三ヶ所観音霊場8番です。
山号 | 龍猛山 |
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院号 | 興福院 |
寺号 | 園城寺 |
住所 | 千葉県柏市手賀712 |
宗派 | 真言宗豊山派 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
興福院の縁起
興福院は、古墳時代・律令時代から文化が形成された手賀に所在、大同年間(806~810)に創建、弘仁11年(820)に十一面観音を本尊とし竜猛山無薬院と称して創建したと伝えられます。弘長3年(1263)に新治郡大岩田郷法泉寺の澄尊上人が来山して伽藍堂宇を整備、竜猛山興福院と改称、戦国時代末期の天正7年(1579)には手賀城主原筑前守胤親の帰依を受け隆盛したといいます。天正18年(1590)に手賀城は落城、当寺も消失し、字寺台から当地字下ノ坊(旧手賀城二ノ丸跡)へ移転して再建、竜猛山円城寺興福院と改称しています。近時、寺基を手賀252-3(興福院平和霊園公園墓地)へ移しています。
境内掲示による興福院の縁起
興福院・手賀城跡
興福院は十一面観音を本尊に祀る真言宗豊山の古刹で、戦国末期には原氏の帰依をうけました。この寺域を含めた一帯は手賀城跡の土塁や空堀が残り、当時をしのばせています。(境内掲示より)
「沼南町史」による興福院の縁起
当院は手賀地区の北部にあり、境内は東西に聞かれ、西南方面から迂回して至る表参道を有する。当地域は埋蔵文化財が豊富で、古墳時代や律令時代から文化が形成されていたという。近くの宇寺台(昔は向台と称す)の地には、律令期の”手賀廃寺”が存在していたとされ、戦前には通称”お滝の前”(三五六番地)に多量の布目瓦が積載されていた。(その一部は房総風土記の丘などに現存する)
寺伝によれば、当院は大同年間(八〇六~一〇)にこの寺台の地に開創され、弘仁十一(八二〇)年には弘法大師作の十一面観音を奉り、竜猛山無薬院と称したという。下って、弘長三(一二六三)年八月十日、常陸国新治郡大岩田郷法泉寺の住持、澄尊上人が来山して伽藍堂宇を建立し、竜猛山興福院と改称した。澄尊は嘉元二(一三〇四)年五月二十七日の示寂であるから、四十年の長きにわたって当院の礎を築いたことが知られ、以後、法流開祖と尊崇されている。
室町期の史実は明瞭でないが、当院の第二世亮海は応永二(一三九五)年二月二日の寂、第三世秀伝は文明十二(一四八〇)年七月二十一日の寂で、以後は世代が間断なく連続している。したがって、開山から二代、二代から三代の間には、それぞれ無住の期間があったことが推定される。なお、三世秀伝は片山南蔵院の中興開山とされる秀尊と同一人とみられる。当院の末寺の多くは中世後半に創立・再興されているから、当院は室町時代後期からは隆盛を保持していったものであろう。
戦国時代末期の天正七(一五七九)年、時の手賀城主原筑前守胤親は、千葉之介国胤との”手賀合戦”に際して興福院に戦勝祈願の祈祷を請い、見事に大勝をえたのを機に檀越となり、土地什宝等を寄進したので、当院は一層隆盛をみたという。しかし、間もなく天正十八(一五九〇)年六月の手賀城落城により、当院も兵火に遭って焼失した。このため、第十一世長運(寛永三<一六二六>年六月二十八日寂)の時に、寺台から現在の下ノ坊(旧手賀城二ノ丸跡)に移転し、竜猛山円城寺興福院と称することとなった。この寺号は、布瀬の末寺福蔵院のそれと同じである。
こうして江戸期には、当寺は近隣に十一カ寺の末寺を擁する本寺として栄えた。末寺の中で、すでに廃寺となった手賀の西光院は、永禄九(一五六六)年三月十五日示寂の快賢が住しており、
同じく千手院は貞享三(一六八六)年一月八日示寂の天入海が中興開山となっているから、それぞれ創建の時代を類推することができる。また、元禄八(一六九五)年四月、第十四世栄源時代には、梵鐘(竜頭下三尺ニ寸、六十四貫)が檀中一同によって新鋳奉納されている(第二次大戦中供出)。境内には、寛永九(一六三二)年の五輪塔、宝暦末年(~一七六四)頃の六地蔵尊、安永五(一七七六)年の壮大な宝僅印塔などが、それぞれ建立されて現存している。特に文化五(一八〇八)年一月十一日建立の門柱には「新四国七十五番 讃州善通寺」と刻まれている。弘法大師誕生の地である善通寺は四国霊場中の白眉とされることからも、東葛印旛大師組合が創立された文化五年当時の、当院の地位を物語るものである。
幕末から明治初期における当院の伽藍は、『門末什器帳』によれば、本堂(九間四尺×六間半、略肘木造り)・庫樫(六間×五間)・観音堂・山門・鐘楼堂・大師堂などであった。このうち、庫裡は明治元(一八六八)年第三十三世通阿代の再建であるが、この時に岩立六良兵衛より金十二両の寄進をえている。しかし、明治以後は原氏の寄進もなくなり、末寺の西光院・千手院・花下院は廃寺とされた。西光院の本尊阿弥陀如来は、旧地(字仲田八三六)に所在する大師堂(新四国八六番)中に合祀され、千手院(元、字小山所在) の本尊大日如来は、興福院に合祀された。また、明王院の薬師堂と大師堂(七七番)も後に当境内に移転されている。
明治二十二(一八八九)年秋、当院は火災で本堂を焼失したが、本尊等の尊像は搬出されたので、合祀諸像を含む多くの古仏像を現存している。大正七(一九一八)年に至って再建したのが現在の本堂である。また、庫裡は旧建物を解体し、昭和四十九年に改築した。このほか、境内には戦後に新築した公民館や火の見櫓などがある。
なお、当院の本尊は運慶作と伝えられる十一面観音であるが、これにより当院は下総新四国三十三ヵ所観音霊場の第八番とされている。(「沼南町史」より)
「千葉縣東葛飾郡誌」による興福院の縁起
興福院記に云ふ。
龍猛山、園城寺、興福院と稱す、本尊は弘法大師作なりと傳ふる十一面觀世音にして弘仁十一年四月大師此地に来り靈夢に感じて自ら刀を執りしものと。當時手賀字向臺に一宇を建立し龍猛山無薬院と稱す、其の後弘長三年八月十日常陸國新治郡大岩田郷法泉寺住僧澄尊来りて伽藍堂塔を建立し其の土地を寺臺と改稱す後天正六年千葉介國胤實弟信濃守賴胤をして手賀城を攻めしめしとり手賀城主原筑前守胤親同寺の住僧に請うて敵軍敗亡の祈禱をなせしに原氏の大勝となりしより原家の信仰淺からず終に檀越となり、土地及什寶を寄進し代々位牌を同寺に納むるに至れり、其後天正十八年手賀落城と共に寺院も亦兵變に罹り現在の位置下の房に移轉せり云々。(「千葉縣東葛飾郡誌」より)
興福院の周辺図
参考資料
- 「沼南町史」
- 「千葉縣東葛飾郡誌」