福寿院|柏市高柳にある真言宗系単立寺院

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宝光山福寿院|東葛印旛大師八十八ヶ所霊場

福寿院の概要

真言宗系単立寺院の福寿院は、宝光山と号します。福寿院は、天和元年(1681)に弘澄法印が真言宗豊山派寺院として開山したといいます。当寺の観音堂は、安政2年(1855)の火災後に再建されたもので、柏市文化財に指定され、下総三十三ヶ所観音霊場25番となっています。また境内大師堂は、東葛印旛大師八十八ヶ所霊場27・82番、下総四郡八十八所霊場82番です。

福寿院
福寿院の概要
山号 宝光山
院号 福寿院
寺号 -
住所 千葉県柏市高柳1366
宗派 真言宗系単立
葬儀・墓地 -
備考 -



福寿院の縁起

福寿院は、天和元年(1681)に弘澄法印が真言宗豊山派寺院として開山したといいます。当寺の観音堂は、安政2年(1855)の火災後に再建されたもので、柏市文化財に指定され、下総三十三ヶ所観音霊場25番となっています。

「沼南町史」による福寿院の縁起

大津川の上流に近く、高柳新田方面に発する支流が合するが、これらの流域に挟まれて半島状に続く低地が字中島である。当寺はこのニ流の分岐点に近い突端に位置する。南北に九〇メートルほどの参道の正面に、古風な茅葺きの本堂(観音堂)がやや小高い地盤の上に建てられている。下総三十三ヶ所観音の第二十五番の札所である。
当寺は古記録を伝えず、創建等の由緒は不詳である。一説によれば、創立は江戸初期の天和元(一六八一)年五月、法印弘澄によって開かれたという。しかし、本尊の十一面観音尊像は、専門の識者によれば近世以前の製作とされることから、観音堂の創建は中世に遡るものとみられ、天和元年の開創説は、真言宗豊山派の寺院とされたことを意味するものであろう。弘澄は、おそらく鰭ケ崎東福寺の僧であったと思われる。
当寺はもともと特定の檀家をもたず、地区の鎮守である香取神社の別当職を務め、その氏子によって維持されてきた。つまり高柳地区は、檀家は善龍寺、氏子は福寿院と分離して共存共栄をはかってきたのである。当境内に神社の石祠が存し、香取神社にはかえって少ない。また、近年まで正月二日には地区の若衆が馬を連れて来て、当寺でお払いを受けていた。すでに用いられなくなった神輿は保管するのみであるが、大杉様の祭りは今なお本堂内で行われている。こうした事柄は、いずれも当寺の歴史的な性格によるものである。
役場備付の『寺院台帳』によれば、当寺は江戸末期の安政ニ(一八五五)年、雷火によって本堂(観音堂)を焼失した。この時の火勢に煽られた大欅(周囲約六メートル)の基部は、今なお堂前に遺存している。また、本尊は搬出して焼失を免れた。その後に再建されたのが、現存する本堂(町指定文化財)である。三間半四方の小型ながら、四方に濡縁を繰らした回廊造り、かのこ建てで入母屋破風の屋根には厚く茅が茸かれ、流れ向拝が付く。
向拝の中備には竜の彫刻を施し、二本の海老虹梁を渡す。内部は、通肘木と天井框との聞にきめ細かく間斗束が並ぶ。大間は欅材四本の丸柱(直径三〇センチ)で仕切られ、外陣の欄間には中央に天女、左右には牡丹と唐獅子の彫刻が施されている。再建年時も棟梁名も不詳であるが、香取神社の慶応三(一八六七)年九月二十九日の木札に、別当福寿院の名と共にみえる棟梁田口辰五郎・中島勘助のいずれかが関与していたことも考えられる。
宮殿内に祀られる本尊十一面観音は、通常秘仏として開扉されないが、短躯の立像ながら彫りが深く精巧である。相好は童顔で瞑目し、頭部に二層の十一面を作る。左手は澡瓶を祀り、瓶には蓮花を出し、腕には長く天衣を掛ける。右手は下に展べ、瓔珞を串いて施無畏手を作る。いずれも経軌に則した端正な作である。(「沼南町史」より)


福寿院所蔵の文化財

  • 福寿院の観音堂(柏市指定文化財)

福寿院の五葉松

三間四方の小さな観音堂で、周囲に濡れ縁をめぐらした回廊造りの建物です。屋根は入母屋造りで破風が付き厚く茅が葺かれています。
建立年代は不明ですが、前の建物が安政二年(1855)の雷火によって焼失されたと記録されていることから、現在の観音堂はこれ以降の再建と思われます。堂前には、この時の火災によって焼かれた大欅の幹部が残っています。
向拝の中備には、龍の彫刻が施され、外陣の欄間には天女・牡丹・唐獅子等の彫刻が描かれています。
本尊の十一面観音立像は秘仏え、童顔で施無畏印を結ぶ端正なものです。
市内に残された江戸時代の建造物として重要です。
昭和53年2月13日、柏市(当時は沼南町)の建造物に指定されました。(柏市教育委員会掲示より)

福寿院の周辺図


参考資料

  • 「沼南町史」