猫の足あとによる千葉県寺社案内

広栄山妙覚寺|勝浦市興津にある日蓮宗寺院

妙覚寺の概要

日蓮宗寺院の妙覚寺は、広栄山と号します。妙覚寺は、奥津城主佐久間兵庫頭重貞の招請により文永元年(1264)日蓮聖人が奥津城内持仏堂で疫病退治の祈祷を執行、翌年には城内持仏堂で10日間説法(日蓮聖人10日間説法の霊場)、帰依した佐久間兵庫頭重貞(日円)は嫡子長寿麿・甥竹寿麿を入信させ、長寿麿(日保上人)を開基として文永10年(1274)邸宅を妙覚寺としたといいます。第16世日嚴は、領主里見氏から植野村妙福寺・中里村長達寺・濱行川村聖大寺の三ヶ寺を与えられて末寺とし、慶安2年(1649)には徳川家光より寺領25石の御朱印状を受領していました。日蓮宗の由緒寺院で、「宗祖直創の霊場」として著名です。また、当寺の山門は、大工棟梁などは不明ながら、天保7年(1836)の建築で、勝浦市有形文化財に指定されています。

妙覚寺
妙覚寺の概要
山号 広栄山
院号 -
寺号 妙覚寺
住所 勝浦市興津1195-1
宗派 日蓮宗
葬儀・墓地 -
備考 -



妙覚寺の縁起

妙覚寺は、奥津城主佐久間兵庫頭重貞の招請により文永元年(1264)日蓮聖人が奥津城内持仏堂で疫病退治の祈祷を執行、翌年には城内持仏堂で10日間説法(日蓮聖人10日間説法の霊場)、帰依した佐久間兵庫頭重貞(日円)は嫡子長寿麿・甥竹寿麿を入信させ、長寿麿(日保上人)を開基として文永10年(1274)邸宅を妙覚寺としたといいます。第16世日嚴は正木岡本両家の紛争を調停した功により、領主里見氏から植野村妙福寺(眞言宗)中里村長達寺(禅宗)濱行川村聖大寺(浄土宗)の三ヶ寺を与えられ、慶安2年(1649)には徳川家光より寺領25石の御朱印状を受領、江戸期には末寺24ヶ寺を擁し、(本寺のない)日蓮宗43本山の一つでした。日蓮宗の由緒寺院で、「宗祖直創の霊場」として著名です。

「日蓮大聖人立教開宗七百五十年慶讃房州聖蹟巡り」パンフレットによる妙覚寺の縁起

本山妙覚寺
宗祖直創の霊場
日蓮宗最初の開山寺で文永10年(1274年)興津城主、佐久間重貞の長子長寿丸がのちに日保上人となり建立。ここでは文永元年(1264年)聖人が、疫病を納める祈祷修法を行う。また翌年に10日間説法された霊場でもある。(「日蓮大聖人立教開宗七百五十年慶讃房州聖蹟巡り」パンフレットより)

「夷隅郡誌」による妙覚寺の縁起

廣榮山、妙覺寺
妙覺寺は興津町興津字土井口にあり、日蓮宗四十三ヶ本山の一に居り、古来獨立本山と唱へられ、二十四ヶ寺を有する巨刹にして、廣榮山と號す、法華經の題號妙法華經を以て本興津灣を望む、境内老松古杉鬱茂し、堂宇樓門其間に隠見す、氣清く地靈なり、其の縁起を繹ぬるに開基は文永十一年甲戌十月に在りとす、抑當山山由緒の跡を尋ぬるに、日蓮聖人四十有三歳、文元甲子十月鎌倉府より故山房州小湊に歸省し給ひ、父妙日尊儀の廟を拝し、並に母公に對顔の時母公歓喜の餘り俄然絶息す、聖悲歎やる方なく、乃ち佛天に發願し、吾弘むる所の法華經閻浮提に流布せん、母をして蘇生あらしめよと浄水を以て口中に灑ぐ、奇なる哉、母公忽焉として甦り、壽を延る事四年、之豈定業亦能轉の靈驗あるにあらずや、是より先當興津の郷に惡疫大いに流行し、其の勢猖獗を極め、細民の之れに斃るゝ者、日に算なし、時の領主佐久間兵庫頭重貞會て上人の聖徳を慕ひ、上人の己が館に迎請し、救護を乞ふ、上人専ら法華經の浄禅密律の他宗に超越する所以を説き、且つ疫病滅退の法を施し給ふ、重貞信伏渇仰の念愈々深きを加へ、嫡子長壽麿・次子竹壽麿を薙髪せしめ、上人の法弟たらしむ、長壽麿時に七才、後名を改め當山を開基す、竹壽麿は得度の後日家と呼び、小湊誕生寺の開山たり、重定の歸依益々厚く其の邸宅を擧げて上人に供し、以て梵刹となす、之れ即ち廣榮山妙覺寺にして、現境内は實に其の敷地に係る、第十六世日嚴元龜天正の頃正木岡本兩家紛争調停の功により、領主里見氏より植野村妙福寺(眞言宗)中里村長達寺(禅宗)濱行川村聖大寺(浄土宗)の三ヶ寺を賞與せられ、改宗して本寺に附せらる、慶安二年己丑十一月二十七日徳川家光寺領として御朱印地二十五石を寄す、維新後収めらる、もと獨立他寺の管する所にあらざりしが、明治七年甲戌身延山の管理に屬す。
堂宇は寛政四年壬子八月諸堂の再建を企てたりしが、工事半にして火を失し、悉く灰燼に歸す、作者不詳の詩あり「寒蓑来吊海東隈、松韻濤聲往事悠、清見當年歸信仰、巍然法閣幾千秋」と蓋し佐久間氏歸信の昔を偲ばしむ、現堂宇は九間四面、庫裡は間口六間奥行八間共に文化十四年の建立に係り、木造茅葺なり、鐘樓堂四方間、嘉永七年の建立たり、外に仁王門間口四間奥行三間半、(天保七年建立)番神社間口三間、(天保十三年建立)、書院間口三間半奥行四会いあ、玄關屋敷間口十間奥行二間(共に弘仁元年建立)等あり、數多の什寶を蔵す。
廣榮山の山號に讃あり、曰く、房州之山廣大、萬年榮昌と、又寺號の讃、奥津之寺億戴妙道覺成と作者詳かならずと雖も、嘗つて里見氏の當山第十六世日嚴聖人の偉徳を稱して、當山の繁榮を祝せしものと傳へらる、嘉永年間に至り、聨に刻して語を存す、今本堂に掲ぐるもの是なり、檀徒は村内二百十戸、村外六戸を有す、現代は第六十一世たり、年中行事として毎年一月十三日國禱會を修し、邦家安泰の祈禱及説教を行ふ、二月十五日に釋迦涅槃會、同十六日宗祖降誕會、三月十一日、十二日開山報恩會、四月八日灌佛會、七月十五日盂蘭盆會、九月十二日宗祖瀧口法難報恩會にして、特に此の夜は末寺及近傍格寺院住職數多登山、大法要を修行し、徹夜説教あり、賽客遠く數里の外より群衆す、之を大會と稱す、其の他十一月十一、十二兩日宗祖涅槃會及春秋二期彼岸供養會を修行す。
(中略)
(立野良道云)妙覺寺は御朱印廿五石、門前百姓十九軒、門下廿六ヶ寺、塔頭六坊、此奥津裏妙覺寺持に付諸國大船舶掛りするとき一艘に付金一朱と御供米二升、五下は一艘錢二百文、五下とは五百石以下を云ふと云へり。(「夷隅郡誌」より)


妙覚寺所蔵の文化財

  • 妙覚寺山門(勝浦市指定有形文化財)

妙覚寺山門

江戸末期地方作の代表的建物の一つである。
天保七年(一八三六)建造にかかり、同十年完成の記録がある。大工棟梁の名は判明しないが、おそらく伝統ある夷隅大工の流れをくむものであると思われる。
入母屋造り、桟瓦葺きであり、懸魚に孔雀の彫刻があるところなど、いかにも地方作らしい。斗栱の蟇股にも、牡丹に獅子、松に鶴など固定した図柄が用いられ、時代色をよく表している。
構造は大きく、三間二面一戸の楼門、構造柱は径三十センチに渡り、地方色と時代色がまことに鮮やかに浮きでている。
しかし、歳月が経過するにつれて老朽化が進み平成八年に大改修が施された。中央の太い柱の礎石、側柱十本の八角礎石は特に劣化が激しかったため、現在は様式が異なっている。(勝浦市教育委員会掲示より)

妙覚寺の周辺図


参考資料

  • 「夷隅郡誌」
  • 「日蓮宗寺院大鑑」