法王山萬満寺|千葉介満胤が夢想国師の高弟古天周満を招聘
萬満寺の概要
臨済宗大徳寺派寺院の萬満寺は、法王山と号します。萬満寺は、小金城主であった千葉介頼胤が、建長8年(1256)に鎌倉極楽寺の良観房忍性(忍性菩薩)を招いて真言宗大日寺と称して創建、北条貞時の時代に大日寺は千葉市へ移されたものの、仏像は残されたままになっていたものを千葉介満胤が、鎌倉瑞泉寺にいた夢想国師の高弟古天周満(1358-1398)を康暦3年(1379)に招聘して臨済宗萬満寺としたといいます。千葉氏の代には寺領500石を、高城氏の代には寺領750石を受領、徳川家康の関東入国に際しては天正19年(1591)寺領70石を受領していた大寺です。下総四郡八十八所霊場51番です。
山号 | 法王山 |
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院号 | - |
寺号 | 萬満寺 |
住所 | 松戸市馬橋2547 |
宗派 | 臨済宗大徳寺派 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | 清風幼稚園 |
萬満寺の縁起
萬満寺は、小金城主であった千葉介頼胤が、建長8年(1256)に鎌倉極楽寺の良観房忍性(忍性菩薩)を招いて真言宗大日寺と称して創建、北条貞時の時代に大日寺は千葉市へ移されたものの、仏像は残されたままになっていたものを千葉介満胤が、鎌倉瑞泉寺にいた夢想国師の高弟古天周満(1358-1398)を康暦3年(1379)に招聘して臨済宗萬満寺としたといいます。千葉氏の代には寺領500石を、高城氏の代には寺領750石を受領、徳川家康の関東入国に際しては天正19年(1591)寺領70石を受領していた大寺です。
境内掲示による萬満寺の縁起
鎌倉時代の建長八年(一二五六)に小金城主であった千葉介頼胤が、鎌倉極楽寺の良観房忍性を招いて堂宇を修め、真言宗の大日寺を開いたのが始まりといわれています。
現在の萬満寺(臨済宗)となったのは、千葉介満胤の時代の康暦三年(一三七九)といわれ、満胤は鎌倉の瑞泉寺にいた夢想国師の高弟古天周満(一三五八~一三九八)の満の字をとって萬満寺と号したといわれています。(松戸市教育委員会掲示より)
「千葉縣東葛飾郡誌」による萬満寺の縁起
萬満寺
馬橋村馬橋にあり、臨済宗大徳寺末にして法王山と號す、堂宇(間口八間奥行六間二尺五寸)、庫裡(間口三間半奥行五間)、境内坪数三千百六十一坪あり、本尊釋迦牟尼佛は、聖徳太子の彫刻にて當寺中興開祖、大徳寺九十六世謹甫和尚の天文八年從兩宗紫野大徳寺請来安置するところ、不動堂に安置する不動明王は、其由緒に曰く、佛工運慶の彫刻にして、當山開闢の祖良觀津師は、忍性菩薩と號す。相州鎌倉極楽寺の祖たり。常に當不動尊を祈念す。弘安四年蒙古より數萬の軍船を差向け来りて、本朝を滅さんとすること急なり。時に北條時宗忍性菩薩に護國の法を修せしむ、忍性鎌倉稲村山に於て當不動尊を祈り、仁王會を開く、未幾何ならざるに、八月一日己大風吹き起り、蒙古の軍船悉破損沈溺し了る。其後千葉賴胤請うて當山に安置せり。山門に安置する仁王尊は、今國寶たり。亦名工運慶作にして、傳来の由緒詳細ならざれども、口碑に依れば、本仁王尊もと今の高木村千駄堀の草庵に安置されしを、當山住職が禅法によりて是れを感知し、當山に遷せしものと、其他唐國傳来の魚籃觀音、太田道灌自作の觀音像等著名なり。又太閤秀吉の制札、徳川将軍代々の朱印状、高城胤辰の制札等を多く蔵す。本山は徳川氏の中世以来囘録の災に遭ふこと二回、古記古器物多く焼失せしが、傳ふる所に據れば、本寺は古昔眞言宗にして、盛に平将門の後世を弔ひしに、朝廷を憚りて此の事沙汰止みとなれり。然るに鎌倉幕府の初世東胤賴一寺を此に創建し、(以下鎌倉大草紙)後千葉介常胤六世賴胤の小金に在住するや、鎌倉極楽寺の良觀上人を請うて、此地に大日寺を創建して、賴朝公より代々の将軍並に千葉一門の菩提を祈る。貞時の時此寺を千葉へ移す。然れども大日五佛の尊像は良觀の自作り給ひし靈佛にして猶此所に殘り給ふ間、其後貞胤氏胤當所に在城の頃、尊氏将軍の御菩提の爲め、夢想國師の御弟子古天和尚を請じ、此寺の中興開山となして萬満寺と號す。(編者云ふ、曰く胤賴一寺を創建す。曰く賴胤大日寺を創建すと甚だ不明なれども、蓋し胤賴は賴胤の誤に非ざるか時胤の子賴胤は東氏の出たり)此氏胤は馬橋にて寺領五百石を寺領として寄進せり。後高城胤辰寺領七百五十石の寄進ありしが、天正十九年辛卯十一月に及びて、徳川氏より寺領七十石を寄進せられたり。(「千葉縣東葛飾郡誌」より)
萬満寺所蔵の文化財
- 木造金剛力士像(国指定重要文化財)
- 木造不動明王立像(松戸市指定有形文化財)
- 鋳造魚籃観音立像(松戸市指定有形文化財)
- 一月寺遺石(松戸市指定有形文化財)
- 阿弥陀如来坐像(松戸市指定有形文化財)
- 豊臣秀吉の制札(松戸市指定有形文化財)
萬満寺の周辺図
参考資料
- 「松戸のお寺」
- 「千葉縣東葛飾郡誌」