常在山藻原寺|日蓮宗由緒寺院、日蓮宗六老僧の一人日向上人
藻原寺の概要
日蓮宗寺院の藻原寺は、常在山と号す日蓮宗の由緒寺院です。藻原寺は、藻原の領主斉藤遠江守兼綱公(常在院日朝尊儀)が、笠森観音堂にいた日蓮聖人に入信、当地に法華堂として創建、日蓮宗六老僧の一人日向上人が身延山久遠寺二世を退いた後当寺に隠居していました。徳川家康が関東入国後の天正19年(1591)には寺領30石の御朱印状を受領、日蓮宗の由緒寺院の一つです。
山号 | 常在山 |
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院号 | - |
寺号 | 藻原寺 |
住所 | 茂原市茂原1201 |
宗派 | 日蓮宗 |
縁日 | - |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
藻原寺の縁起
藻原寺は、藻原の領主斉藤遠江守兼綱公(常在院日朝尊儀)が、笠森観音堂にいた日蓮聖人に入信、当地に法華堂として創建、日蓮宗六老僧の一人日向上人が身延山久遠寺二世を退いた後当寺に隠居していました。徳川家康が関東入国後の天正19年(1591)には寺領30石の御朱印状を受領、日蓮宗の由緒寺院の一つです。
「稿本千葉県誌」による藻原寺の縁起
常在山藻原寺
同町(長生郡𦾔長柄郡茂原町)大字茂原字元山に在り、境内六千四十坪、日蓮宗久遠寺に屬する一派の本寺なり。寺傳に云ふ、日蓮の高弟六老僧の一人日向の開基にして、初め常楽山妙光寺と號すと。天正十九年徳川家康寺領三十石を寄附す、本州著名の大寺にして建築宏大を極む。(「稿本千葉県誌」より)
境内掲示による藻原寺の縁起
開基さま縁起
鎌倉時代の中期、建長五年四月二十八日、日蓮大聖人は房州・清澄山頂旭ヶ森において初めで「南無妙法蓮華経」とお題目を唱えられ、法華経の信仰をお説きになりました。
しかし、念仏信者の地頭である、東條景信にはその教えは受け入れられず、清澄を追われる法難に遭われました。爾後、日蓮さまは布教のため、鎌倉へ旅立つ途上、同年五月十一日笠森観音堂に一泊されましたが、その夜、藻原の領主、斉藤遠江守兼綱公の夢枕に観音さまが現れ、「我に日本無双の珍客あり、疾く迎えて供養せよ」とお告げがあり、同じく観音さまの霊夢を感じた須田(墨田)次郎時忠公と共に駆けつけ、大聖人をお迎えになりました。
日蓮さまは、この地で法華経とお題目の修行をお説きになり、兼綱公をはじめ、みなことごとく、その御教えに従ったと伝えられております。故に当山を「日蓮門下お題目初唱之霊場」と称しております。
兼綱公は、後にこの地に法華堂を建立し、お題目修行の道場とされました。
兼綱公とは日蓮さまご入滅の折、身延領主波木井実長公に送ったお手紙に「藻原殿へ」と書かれたそのお方です。晩年兼綱公は香取郡多古町に移られ三ヶ寺を建立し、日蓮さまのご恩に報いられました。
開基さまとは、通常寺院を創建した人を言います。
従って当山は斉藤遠江守兼綱公を開基とし、その法号を常在院日朝尊儀と申し上げ、山内にお祭りして今日にいたっております。(境内掲示より)
藻原寺所蔵の文化財
- 藻原寺文書(茂原市指定有形文化財)
- 藻原寺大堂の大絵馬「韓信の股潜り」(茂原市指定有形文化財)
- 藻原寺本堂唐門向拝彫刻(茂原市指定有形文化財)
- 一塔両尊四士像(茂原市指定有形文化財)
- 石造釈迦如来立像(茂原市指定有形文化財)
藻原寺文書
藻原寺は、日蓮宗の名刹で、古くは藻原郷法華道場、後に常在山妙光寺と称し、「東身延」とも呼ばれた。天正十九年(一五九一)十一月、徳川家康より受けた寺領三十石の朱印状の写には「埴生郡藻原寺」とあり、後に妙光寺から藻原寺へと寺名を改めるきっかけになったという。
藻原寺は、「金綱集」一巻・「仏堂伽藍記」一巻・「雑々抄」一点のほか、「仁王胎内墨書銘」二点、「小田原北条氏制札・禁制」四点、「渋谷信忠田地寄進状」一点が、指定文化財になっており、中世における長生地方等の実情を知りうる貴重な文化財である。(茂原市教育委員会掲示より)
藻原寺大堂の大絵馬「韓信の股潜り」
藻原寺の大堂には、江戸時代に描かれた大絵馬が三点奉納されている。そのうちの一点が、「韓信の股潜り」である。大きさは、縦二一三cm×横三二四cmで、作者は、片岡休川。狩野派の影響を受けた絵師白井休盛(六代目喜左右衛門信英、萬斎と号す。地引村出身=現長南町)の門人である。休川の詳細は定かではないが、江戸時代後期〜末期にかけて活躍していた絵師と考えられる。この大絵馬は、主題に相応しく、力強くダイナミックな描線と、明快な構図が特徴の秀逸な作品である。
「韓信の股潜り」は、今から約一八〇〇年前漢王朝を建国した劉邦(高祖)に使えた韓信がまだ無名であったころの故事によるものである。(茂原市教育委員会掲示より)
藻原寺本堂唐門向拝彫刻
向拝彫刻の上に横たわる龍や、唐門破風にみられる鳳凰の彫刻は、二代目武志伊八郎信常(一七八六〜一八五二)の作である。
初代は宮彫刻師、武志伊八郎信由といい、「関東では波を彫るな」と恐れられた程の名工であり、人呼んで「波の伊八」と広く知られていた。信常は、この父信由のもとで若い頃より修行を積み、父にも勝る名工となり、初代波の伊八亡きあと二代目を継いだ。
けやきの厚板に彫られた雄大な竜や優雅な鳳凰は、板の厚みを何倍にも見せるようなすばらしい作品であり、二代目信常の代表先と考えられる。(茂原市教育委員会掲示より)
一塔両尊四士像
一塔両尊四士は、題目宝塔を中央に、両脇は釈迦・多宝如来の二仏を、脇士には上行・無辺行・の四菩薩を配置した本尊形態。
南北朝時代初頭、康永元年〜二年(一三四二〜四三)にかけて、両尊、四菩薩、中尊の題目宝塔の順で造像された様子が藻原寺所蔵の「仏像伽藍記」に記されている。
尊容は、両尊、四士像ともに寄木造で漆箔が施され、合唱の形態をなし、両尊は、法衣垂下式である。題目宝塔に刻まれる「南無妙法蓮華経」の題目は、日蓮大聖人親筆の曼荼羅御本尊(日向上人授与 弘安二年=一二七九)の題目を写したもので、金属製で仕上げている。
鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて現藻原寺の形成過程で造られた像であり、たいへん貴重である。(茂原市教育委員会掲示より)
石造釈迦如来立像
胴部で継ぎ合わせた丈六の丸彫立像で、合掌印を結び、衣文の彫法も浅く整然としている。慈愛に満ちた童顔で、現世を静かに見守る姿は素晴らしく、かなりの石工の手によるものであることがうかがわれる。
釈迦如来の印相は通常説法印であるが、この像のように合掌印は珍しい。これは石刻りの制約から彫り易さや、強度の点を考慮したものと思われる。
台座は蓮華座で、銘文によると元禄四(一六九一)年に造立したとある。市内に現存する石仏中最大のものでかつ彫技も優秀である。(茂原市教育委員会掲示より)
常在山藻原寺の周辺図