加村山光照寺|江戸川八十八ヶ所霊場
光照寺の概要
浄土宗寺院の光照寺は、加村山勝林院と号します。光照寺は、侶阿弥陀佛上人が天正20年(1591)に光久寺と称し時宗として創建、心誉上人が浄土宗に改め、正保元年(1644)に光照寺と改号して中興したといいます。江戸川八十八ヶ所霊場7・27番です。
山号 | 加村山 |
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院号 | 勝林院 |
寺号 | 光照寺 |
住所 | 流山市平和台5-387 |
宗派 | 浄土宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
光照寺の縁起
光照寺は、侶阿弥陀佛上人が天正20年(1591)に光久寺と称し時宗として創建、心誉上人が浄土宗に改め、正保元年(1644)に光照寺と改号して中興したといいます。
「流山市史・近代資料編」による光照寺の縁起
光照寺
加村山、光照寺は、町の東方十三四町隔りたる加といふ區にあり其の周圍は竹林、畑にして、本尊は阿彌陀佛、浄土宗なり、開山は但阿彌陀佛大和尚にして、慶長九月十五日入寂せりといふ、この寺の中興亡心譽上人、元禄七年十一月寂すと、現住職は薫譽廣山和尚にして、世を繼ぐこと二十七代なりと、本堂の間口五間半、奥行六間半、總坪數三十一坪七合五勺、境内一段九畝十歩、境外七畝十二歩なりと。(「流山市史・近代資料編」より)
「千葉県浄土宗寺院誌」による光照寺の縁起
元禄八年九月の古文書によれば、当山は天正二〇年時宗の僧侶阿弥陀佛上人により開かれ、寺号を光久寺と称した。開山上人没後しばらく中絶していたが、正保元年(一六四四)心誉上人(中興)が再興して浄土宗となり、寺号を光照寺と改め、小金東漸寺弁誉上人の代にその末寺となった。
前記の古文書には、本尊阿弥陀如来(不詳)。別に阿弥陀如来立像あり。恵心僧都作とみえ、宝永五年(一七〇八)京都において修理再興したと記されている。
境内に幕末の志士須藤力五郎の墓がある。彼ははじめ(田中)本多藩の代官とつとめて領民の支持あつかったが、主家が勤皇側にくみしたのに対し、彰義隊に加わったため主家の手によって処刑された。のち須藤霊神としてあがめられていた。墓碑銘は山岡鉄舟揮毫。(「千葉県浄土宗寺院誌」より)
光照寺の周辺図