赤城山光明院|赤城神社のもと別当
光明院の概要
真言宗豊山派寺院の光明院は、赤城山信楽寺と号します。光明院の創建年代等は不詳ながら、明治維新まで赤城神社の別当を勤めていました。下総三十三ヶ所観音霊場21番、江戸川八十八ヶ所霊場77番です。
山号 | 赤城山 |
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院号 | 光明院 |
寺号 | 信楽寺 |
住所 | 流山市流山6-651 |
宗派 | 真言宗豊山派 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
光明院の縁起
光明院の創建年代等は不詳ながら、明治維新まで赤城神社の別当を勤めていました。
「流山市史・近代資料編」による光明院の縁起
光明院
當町裏通宿の南方東側、即ち赤城神社の麓に山門嚴かなる寺院あり赤城山信楽寺光明院是なり、本尊は不動尊にして新義眞言宗豊山派なり、本堂は明治二十二年中改築せしものにして間口六間半、奥行五間半、庫裡間口十間、奥行四間半、境内一段八畝二十六歩、境外三町二段九畝三歩の寺禄を有し、當寺の由緒に就き現住職二十一世安豊秀海上人調査せられしが、今より凡何年頃開山せられしか、中興せられしは何世なるか、未詳なることなり、然れども十九世其の廢頽を興さんとせしが、其の期に至らず遂に入寂、二十世密道秀成和尚に至り、明治廿年起工堂宇一新、更に同二十三年三門新に築きかくの如く日夜經營に勤められ信徒増加を見るに至れりといふ。(「流山市史・近代資料編」より)
光明院所蔵の文化財
- 菩薩形坐像(光明院 旧長福寺)(流山市指定有形文化財)
菩薩形坐像(光明院 旧長福寺)
像高四九・二センチメートル。ヒノキの一材から頭と体の主要な部分を彫り出し、手や足を剥ぎつける構造であったが、剥ぎつけた部分は失われている。
当初は全身に漆箔を施し、額の中央の白毫に水晶をはめ込んだ金色に輝く尊像であったと思われる。頭部をやや右に傾ける姿勢や両肩の剥ぎ面が広いことから、六臂で右脚を立てた如意輪観音であったと推定される。
丸いふくらみのある顔や柔らかな肉身、切れ長の眼とやや小さく引き締まる鼻や唇をもる表情、高く華やかな髷などの特徴から鎌倉時代一三世紀後半の作とみられる。(流山市教育委員会掲示より)
光明院の周辺図