天津神社|馬加城主の陸奥守平康胤が勧請
天津神社の概要
天津神社は、習志野市屋敷にある神社です。天津神社は、室町時代に馬加城主の陸奥守平(千葉)康胤が、居城普請に際して当地に滞在、千葉氏の守護神である妙見菩薩を勧請したといいます。以後当地屋敷の鎮守として祀られています。境内大師堂は千葉寺十善講八十八ヶ所霊場34番です。
社号 | 天津神社 |
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祭神 | 天之御中主之大神 |
相殿 | - |
境内社 | 水浅間神社、道祖神社 |
住所 | 習志野市屋敷3-12-18 |
祭日 | 奉射祭1月22日、節分祭2月3日、例祭9月22日 |
備考 | - |
天津神社の由緒
天津神社は、室町時代に馬加城主の陸奥守平(千葉)康胤が、居城普請に際して当地に滞在、千葉氏の守護神である妙見菩薩を勧請したといいます。以後当地屋敷の鎮守として祀られています。
境内掲示による天津神社の由緒
当天津神社は天之御中主之大神さまを祭神として、これの屋敷の里に御鎮座は古く約六百年の昔の事と言われている。御鎮座年代は詳ではないが神社の古書に記されている御事蹟によりますと往古幕張の庄に人皇五十代桓武天皇の皇子一品式部卿葛原親王の後胤千葉介常胤の子息種信公城主となり、その子孫幕張の城主陸奥守平康胤の時代、領主の居城普請中幕張台の(古代よりお屋敷台と言われていた)現屋敷町に居住することとなりそれ以後この地を馬加屋敷と称された。平康胤公は敬神の念厚く屋敷の里に天津神社を造営天之御中主之大神さまを勧請奉斎されたものであります。以後屋敷の守護神として領主住民の崇敬をあつめ御神威を今日に伝えています。(境内掲示より)
「習志野市史」による天津神社の由緒
天津神社
屋敷台新田の産土神で、祭神は天御中主神。室町時代に、馬加城主の馬加氏がこの地に一時居住したおり、千葉一族の守護神である妙見菩薩を祀ったのが始まりで、江戸時代になって天津神社と改称したといわれる。屋敷台の地名も馬加氏の屋敷があったことに由来するという。屋敷台が馬加村(現千葉市幕張)の一部であったことから、神主は馬加村子守神社(馬加大明神)の中台氏が世襲した。明治初期の本殿の規模は間口三尺・奥行三尺。(「習志野市史」より)
千葉県神社名鑑による天津神社の由緒
往古、馬加(現幕張町)の城主が居城普請中、当屋敷台に移り住み、その時、同城主によって天津神社を勧請したといわれる。年代は不詳。(千葉県神社名鑑より)
天津神社の周辺図