宮谷八幡神社|土気城主酒井定隆が鬼門除けとして遷座、旧郷社
宮谷八幡神社の概要
宮谷八幡神社は、大網白里市大網にある神社です。宮谷八幡神社の創建年代等は不詳ながら、往古は長峰の地に鎮座、土気城主となった酒井定隆が長享2年(1488)土気城の鬼門除けとして当地に遷座させ、本國寺に別当を勤めさせたといいます。明治維新後の社格制定に際して郷社に列格、大網神社と改称したものの、明治13年旧に復しています。
社号 | 宮谷八幡神社 |
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祭神 | 宗像三神(多起理比売命・市杵島比売命・田寸津比売命)、譽田別命 |
相殿 | - |
境内社 | 春日大明神、天照大神、稲荷神社、八幡神社、厳島神社 |
例祭日 | 10月10日 |
住所 | 大網白里市大網2990 |
備考 | 旧郷社 |
宮谷八幡神社の由緒
宮谷八幡神社の創建年代等は不詳ながら、往古は長峰の地に鎮座、土気城主となった酒井定隆が長享2年(1488)土気城の鬼門除けとして当地に遷座させ、本國寺に別当を勤めさせたといいます。明治維新後の社格制定に際して郷社に列格、大網神社と改称したものの、明治13年旧に復しています。
「千葉県神社名鑑」による宮谷八幡神社の由緒
当社は現在地の近傍折戸という所にあったが、文明二年土気城主酒井越中守定隆公が土気城を築くに際し、当地が同城の鬼門に当たるとして鎮護のため現在地に遷座した。本国寺の寺域一五、〇四〇坪の一部町字宮谷二、九九〇番地、坪数三〇〇坪を以て境内地とし、旧号を大網神社と称し明治二年八幡神社と改称、現在に至る。(「千葉県神社名鑑」より)
「稿本千葉縣史」による宮谷八幡神社の由緒
八幡神社
同郡同上(舊上邊郡・山武郡)大網町大字大網宿字西宮谷の丘上に在り、境内三百坪、祭神は譽田別尊なり、創建年月詳ならず。社傳に云ふ、文明以前は八幡太神宮と稱せり、時に土気城主酒井氏日蓮宗を信じ遂に八幡大菩薩と爲し本國寺をして之を司らしめたりと。明治の初め大網神社と改め尋いで郷社に列せらる。同十三年四月再び今の稱號に改む、末社二十四座あり。明治三十九年十二月幣饌料供進指定(「稿本千葉縣史」より)
宮谷八幡神社所蔵の文化財
- 宮谷八幡宮本殿(大網白里市指定有形文化財)
宮谷八幡宮本殿
この社は、長享二年(一四八八)土気城主酒井定隆が土気城を再建したとき、城の鬼門除けとして長峰から今の所に移したもので、永禄四年(一五六一)酒井四代の城主胤治の命により、大網城主板倉長門守が再建した。
中央本社の祭神は、宗像三神(多起理比売命・市杵島比売命・田寸津比売命)と譽田別命(応神天皇)。向かって左の小社は春日大明神、右の小社は天照大神である。県文化財調査員海老名雄二氏の所見によると、柱や蟇股などに永禄の部分が残されているが、主として享保(一七一六~一七三六)の頃の再建と見るべきえあろうという。
風雨にさらされて老朽甚だしく、昭和五十八年に大改修が行われた。小社は部分改修であるが、本社は一部古材を活かし原型に忠実に復元された。(大網白里市教育委員会掲示より)
宮谷八幡神社の周辺図
参考資料
- 「千葉県神社名鑑」
- 「稿本千葉縣史」