臼井城跡。佐倉市臼井にある旧跡・名所

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臼井城跡。佐倉市臼井にある旧跡・名所

臼井城跡の概要

臼井城跡は、佐倉市臼井にある名所旧跡です。臼井城跡は、北東に印旛沼を見下ろす台地上に築城された城跡で、永久2年(1114)に千葉介常兼の三男常胤が居館を構えた地とされます。正和3年(1314)に臼井祐胤が逝去した後は同族の胤氏が横領したものの、暦応元年(1338)に臼井祐胤の子興胤が臼井城主として復帰、城割りなどの基礎が築かれたと伝えられます。文明11年(1479)には太田道灌・二階堂七党等に攻めこまれたものの、太田道灌の弟圖書が戦死するなど、臼井城は落城せず、永禄7年(1564)の上杉謙信に攻めこまれた際にも持ちこたえ、堅固な城として著名でした。天正18年(1590)小田原北條氏の滅亡後は、徳川家康の家臣酒井家次が当地を領有、酒井家次の子忠勝の代、文禄2年(1593)失火により楼閣は灰燼に帰してしまったといいます。なお、現在残されている空堀や土塁などの遺構は15世紀以降のものと推定されています。

臼井城跡
臼井城跡の概要
旧跡・名所名 臼井城跡
みどころ 佐倉市指定史跡
入場時間 -
入場料 -
住所 佐倉市臼井・臼井田、臼井城址公園
備考 -




臼井城跡の縁起

臼井城跡は、北東に印旛沼を見下ろす台地上に築城された城跡で、永久2年(1114)に千葉介常兼の三男常胤が居館を構えた地とされます。正和3年(1314)に臼井祐胤が逝去した後は同族の胤氏が横領したものの、暦応元年(1338)に臼井祐胤の子興胤が臼井城主として復帰、城割りなどの基礎が築かれたと伝えられます。文明11年(1479)には太田道灌・二階堂七党等に攻めこまれたものの、太田道灌の弟圖書が戦死するなど、臼井城は落城せず、永禄7年(1564)の上杉謙信に攻めこまれた際にも持ちこたえ、堅固な城として著名でした。天正18年(1590)小田原北條氏の滅亡後は、徳川家康の家臣酒井家次が当地を領有、酒井家次の子忠勝の代、文禄2年(1593)失火により楼閣は灰燼に帰してしまったといいます。なお、現在残されている空堀や土塁などの遺構は15世紀以降のものと推定されています。

境内掲示による臼井城跡について

臼井城跡
千葉氏の一族臼井六郎常胤が臼井に居を構え、臼井氏の中興の祖といわれる興胤(十四世紀中頃)の代に、この城の基礎がおかれたと伝えられる。現在の遺構は十五世紀以降のものと考えられるが、城跡は本丸、二ノ丸を中心として、空堀、土塁等の旧態をよく残している。
戦国時代の末期には原氏が城主であったが、天正十八年(一五九〇)小田原落城により、千葉氏とともに滅んだ。以後酒井家三万石の居城となって、慶長九年(一六〇四)の転封まで使用された。太田道灌・上杉謙信の軍との攻防戦は有名である。(佐倉市教育委員会掲示より)

「印旛郡誌」による臼井城跡について

臼井城址
臼井田町に在り佐倉町を距ること西北約一里餘西南は臼井臺町を隔てて志津の曠野と相接し東北は印旛沼を擁して印西岩戸の壘と相對し天惠の要地を占め堅城を以て稱せらる其昔下總國葛飾郡にありて印旛葛飾二郡の内百十四村を以て之に隷す(今臼井荘を除く外荘郷村等詳ならず)四道を分ちて城其中央に居る東を佐倉道となし南を千葉道となし西を市川道となし北を布佐道となす坤を前とし艮を後とし巽を左にして乾を右にす地原野多く丘陵各所に起伏し高低相交る地味墳壌赤土多く未曾て石あらず松杉に適し檜柏に宜しからず所々巨竹を出す寒暑大千葉武江に異ならず春夏の交屡烈風あり沙を捲き塵を揚げ或は五六日に及びて止むとあり俗之を請ひて筍流しといふ本城一支流三あり曰く志津師戸岩戸附城四あり曰く田久里中臺町洲崎稲荷臺別に字王子臺に一砦あり永禄中上杉謙信の築く所なり今此地を御中城と呼ぶ永久二年千葉介常兼其の三男常胤をして築きて居らしむ之を臼井六郎と稱す(印旛葛飾二郡を領す)常康の五世祐胤に至り宗家千葉氏と共に鎌倉に仕ふ正和三年祐胤卒す嗣子竹若君猶は幼弱同族胤氏竹若を逐ひ自ら城主となる竹若名を行胤と改め後興胤と稱す足利氏に從ひ勲功あり從五位下に叙し左近将監に任ぜらる暦應元年胤氏を屏けて臼井城主となる興胤の八世俊胤に至り文明十一年太田道灌二階堂七黨等一万餘騎を率ひ来り攻む城堅くして抜けず道灌終に敗退し道灌の弟太田圖書戰死す弘治三年俊胤の曾孫久胤羸弱同族上総介胤定の横領する所となる永禄七年上杉謙信来り攻む克たずして還る天正十八年徳川氏總房常の四州を徇ふるに當り胤定の孫胤榮千葉重胤と共に小田原を援く北條氏亡ぶと共に臼井城も亦徳川氏の臣酒井家次の爲に滅さる天正十九年徳川氏酒井家次を茲に封す其子忠勝に至り三萬石を領す文禄二年城中火を失し樓閣悉く灰燼に歸し城亦廢絶し塹壕古墳は今尚遺跡を留めて千葉家の榮枯盛衰を談り興胤の創造に係る圓應寺の鐘の音は諸行無情を訴へよん百八十餘年の久しき威を總房の野に振ひし英傑の偉業を偲ばしむ(「印旛郡誌」より)


臼井城跡所蔵の文化財

  • 臼井八景の城嶺夕照

臼井八景の城嶺夕照

いく夕べ 入日を峯に送るらん むかしの遠くなれる城跡
永久二年(一一一四)に千葉常兼の三男常康が初めて臼井の地を治めて以来、十六代臼井久胤までの約四百五十年間、臼井氏は長くこの地の領主であった。その後臼井城は原氏や徳川家康の武将酒井家次の居城となったが、文禄三年(一五九三)の火事によって、この台地にあった城廓は焼失してしまった。「臼井八景」は、それからおよそ百年後の元禄期に作られたものである。臼井久胤の玄孫にあたる「臼井八景」の作者は、夕映えの美しい城跡の嶺に立って、自分の祖先が臼井城の城主であった頃の遠い昔を偲びながら、感慨深く前掲の歌を作り上げたものである。
城跡の近くには、往時の土塁や空堀の一部が今でも昔のままに残っている。本丸跡の発掘調査により、十五世紀の中国・明時代の陶磁器の破片や、城が火事になった時の焼け米などが発見されている。
北側の山裾には、第六代城主臼井興胤が一三三九年に創建した瑞湖山円応寺がある。また空堀の近くには、文明十一年(一四七九)に臼井城を攻めて討死した太田道灌の弟・図書の墓がある。(境内掲示より)

臼井城跡の周辺図


参考資料

  • 「印旛郡誌」