瑞湖山圓應寺|臼井氏を中興した臼井興胤が、佛眞禅師を開山として開創
圓應寺の概要
佐倉市臼井田にある臨済宗妙心寺派寺院の圓應寺は、瑞湖山と号します。圓應寺は、鎌倉建長寺に匿われて養育された竹若丸(臼井興胤)が、足利尊氏の引き立てもあり旧領を回復した際、鎌倉建長寺の佛國禅師・佛眞禅師の報恩に報いるため暦応元年(1338)に建立したといいます。徳川家康が関東入国した翌年の天正19年(1591)に寺領20石の御朱印状を受領、文禄2年(1593)の火災により荒廃、頂山和尚が笠間高乾院から入寺し当寺19世となり、建長寺派から妙心寺派に改めて当寺を中興しています。六崎組十善講29番、うすい花の寺八ヶ寺の「苔と紅葉の寺」です。
山号 | 瑞湖山 |
---|---|
院号 | - |
寺号 | 圓應寺 |
住所 | 佐倉市臼井田966-1 |
宗派 | 臨済宗妙心寺派 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
圓應寺の縁起
圓應寺は、鎌倉建長寺に匿われて養育された竹若丸(臼井興胤)が、足利尊氏の引き立てもあり旧領を回復した際、鎌倉建長寺の佛國禅師・佛眞禅師の報恩に報いるため暦応元年(1338)に建立、自身の次男(道安和尚)を僧籍に入れて当寺二世したといいます。徳川家康が関東入国した翌年の天正19年(1591)に寺領20石の御朱印状を受領、文禄2年(1593)の火災により荒廃、頂山和尚が笠間高乾院から入寺し当寺19世となり、建長寺派から妙心寺派に改めて当寺を中興しています。元禄年間には、臼井秀胤(信斎)が当寺にて臼井八景を定め、当寺は「城嶺夕照」と称されました。
境内掲示による圓應寺の縁起
円応寺
瑞湖山円応寺はもと臨済宗建長寺派であったが、十九世頂山禅師のとき妙心寺派に転派した。本尊は釋迦牟尼仏である。暦応元年(一三三八)臼井氏中興の祖興胤が創建した古刹で、それ以後臼井氏の菩提寺となった。開山は興胤を幼時教育した鎌倉建長寺の僧仏真禅師で、その高恩に報いたものである。
文禄二年(一五九三)徳川家康の家臣酒井家次居城の際、城と共に焼失するが、その後再建され、寺領広く風光明媚で、城跡と共に印旛沼の落日に映えた眺めは「城領夕照」として臼井八景の一つとなっていた。また、寺域には、臼井氏歴代の墓所と臼井家の忠臣岩戸五郎胤安の墓がある。(臼井田環境整備委員会掲示より)
「佐倉市史」による圓應寺の縁起
円応寺(臼井田町)
臨済宗、京都妙心寺末(旧)。本尊釈迦牟尼仏。臼井城主祐胤死後、その子竹若丸は岩戸五郎らに守られて鎌倉建長寺に仏国禅師を頼り身をかくまったことは既に述べて置いた。仏国禅師はその弟子の仏真禅師と共に養育し、初めは僧籍にいれることとしていたが、禅師はとれを惜んで僧とせず、元服して太郎行胤と称せしめた。以来十年を経て建武二年八月、足利尊氏は鎌倉に下って北条時行を破り(中先代の乱)鎌倉にとどまったが、との時、行胤は禅師の勧めで尊氏に従った。その後、尊氏に従って功をたて臼井の本領を安堵されたことは既に述べたことである。この臼井城復活の時、廃れたる家を興すという意をこめて行胤を改めて興胤と称したという。臼井中興の祖というのはこれがためである。興胤は自分が今日あるのは全く仏国・仏真両禅師の高思によるものと、臼井氏の菩提寺はこれまで光勝寺であったのを改めて、新たに一寺を創立した、これが現在の円応寺で以来臼井氏の菩提寺であった。当時仏真禅師は伊豆国の国清寺の住持であったが請うて当寺の開山に迎えたという。以上は「臼井家由来抜書-史料編纂所蔵」に依拠したものである。その後、興胤に嫡子が生れたので、円応寺第二世(道安和尚という)とした。過去帳によると開基の輿胤は法号を円応寺殿江鑑行胤居士、貞治三(一三六四)甲辰年四月十八日寂。開山禅師(仏真禅師大和尚)応安一一乙酉(一三六九)年七月十三日遷化となっている。円応寺は元来、鎌倉建長寺末であったが、第十九代頂山禅師大和尚代、京都の妙心寺末となった。それ故頂山を円応寺中興の祖としている(松裏氏の調査を引用)。円応寺は開創後、近在に末寺を創建したので臨済禅が教勢を次第に拡げている。その末寺で天正末年迄に開創されたのは小林寺(永徳二)報恩寺(応永二年以前)浄光寺(暦応二)円通寺(応永二年以前)常安寺(明徳三年)で、市内の臨済宗は全部が円応寺末となっていた。左に各寺の大要を述べる。(「佐倉市史」より)
「稿本千葉縣史」による圓應寺の縁起
瑞湖山圓應寺
同郡同上(印旛郡舊印旛郡)臼井町大字臼井町字江間にあり、境内千百三十九坪、臨済宗なり、興国中臼井興胤創建し、僧佛眞を以て開山となす。興胤幼にして家難に遭ひ鎌倉建長寺に依り、僧佛國・佛眞等の扶助を受く、臼井氏を中興するに及び佛眞を請じて此の寺を創建し、其の恩義に報い其の次子僧道安を以て第二世となす、天正十九年十一月徳川氏寺領二十石を付す。(「稿本千葉縣史」より)
「印旛郡誌」による圓應寺の縁起
臼井田町舊城の北字江間にあり瑞湖山と號す臨済宗にして京の妙心寺に屬す本尊を釋迦牟尼佛とす暦應元年臼井城主從五位下左近将監平興胤開基豆州奈古村國清寺住職佛眞和尚創立する處なり初興胤幼にして孤となり叔父胤氏の逼る所となり鎌倉に遁れて建長寺に依る成長して尊氏の幕下に屬して軍功を立て遂に本領の地を復し其の報恩の爲に建つる所なることは草創記に詳なり
今臼井の地に圓應又は圓應谷と稱する所あり曠漠たる豪田なり當寺の寺領たりしなるべし興胤より十一代久胤に至り臼井氏遂に滅ぶ是に於て寺産悉く公界に歸し寺門衰弊香花資乏し建長圓覺の兩寺棄てゝ顧みず寺は空しく荒廢に委す天正十九年徳川家康放鷹の爲此地に遊び近臣を遣して寺の由来を聞かしめ寺領二十石を賜ふ文禄二年酒井家次城主たりし時城中火を失して余炎此處に及び佛閣僧蘆盡焦土と化し佛像五十七軀其の他什器經巻皆灰燼に歸す寛永十三年六月十八世禅龍出でて小金に赴く而して法席を紹ぐべき者なく佛眞の法統遂に絶ゆ(神體嘗て春日局の春願を受く此地江都に立し故に永く法籍に居ること能はず)此の時に至り寺は奥に荒廢の極に達せりと云ふ仝十四年八月頂山和尚常陸國宍戸郷高乾院より入りて十九世を紹ぐに及び荒を拓き廢を興し大に寺院の興隆に極む遂に數年ならずして殿堂鐘樓老樹蓊鬱の間に聳ゆるに至り其の壮觀昔時二勝れりと云ふ當時寺域一萬二千餘歩境内不入の地たり是東照公の特授に依れるなり寄進状に曰く
寄進 圓應寺
下總國印旛郡臼井之郷之内貮拾石事
右令寄附畢殊寺中可爲不入者也仍如件
天正十九年辛卯十一月日印
元禄宝永の間第廿四世玄海あり諱は宋的又盲龜と云博學にして才藻あり時に臼井信胤来りて郭外に住す亦風流の士なり相興に湖山の八景を賦し以て後世に傳ふ左に的公の一什を録す
享保第亡亥七月二十日至雲嚴寺 宋的
遠出總陽度數間 芒鞋竹杖至東山 影堂開了禮三佛 三佛威風不等閑
今の社殿間口八間半奥行七間鐘樓間口一間奥行一間半山門間口九尺奥行九尺境内一千百三十九坪(官有地第四種)あり磯貝祖周住職にして檀徒四百六十三人管轄廳まで四里十八町なり境内佛王三宇あり即
一、觀音堂 本尊は觀世音菩薩にして由緒不詳建物間口一間奥行一間半
二、十王堂 本尊は十王菩薩にして由緒不詳建物間口五間奥行二間半
三、大師堂 弘法大師を本尊とす由緒不詳建物間口三間奥行二間
尚三塔頭九末寺あり曰く
妙嚴院 松雲寺(以上或は三塔頭の内か)
宝樹院(上座區)報恩寺(下志津區)雲祥寺(先崎)西福寺(岩戸區)常安寺(飯野區)圓通寺(角来區)浄光寺(羽鳥區)清久寺(龜崎區)小林寺(飯郷)
寺内に又梅隠伴雲の二庵ありしと云ふ王政維の始寺域縮少せられ寺領悉官歿せられ伽藍亦荒廢に及び僅に舊時の俤を存するのみ嘆ずべき哉左の寺寶を蔵す
一、青銅阿彌陀像(傳隠元禅師来朝の時携来りたる五軀の中)壹軀
一、釋迦普賢文殊の畫像(文鈌く狩野探悦筆)
一、十六善神圖(源直年筆)壹幅
一、家康以来御朱印状(模寫)拾壹通
又鐘あり其の銘に曰く(鐘銘省略)(寺院明細帳郷土誌)
〇(新撰佐倉風土記云)在臼井田町臼井左近将監興胤創造之請鎌倉建長寺佛國禅師嗣佛眞禅師爲開山焉
〇(利根川圖志云)
〇(日本名勝地誌云)圓應寺は瑞湖山と號す臼井田町に在り禅宗臨済派にして京都妙心寺に屬し佛眞禅師の開山せし所なり初め臼井興胤の開山せし所なり初め臼井興胤の幼時竹若丸と稱せしや叔父之を殺して奪はんと欲す家臣岩戸五郎胤安偶々其の謀を聞知し自ら姿を變じて山伏の姿を爲し竹若丸を笈中に隠匿して鎌倉に奔り建長寺の佛國禅師に就き養育を請ふ既にして佛國禅師の死するに及び佛國其の高弟佛眞に委托して之を撫育せしめ幸に成長するを得終に再び臼井城を復するに至れり是に於て興胤永く佛眞の厚恩に酬いんと欲し爲めに當寺を創建し其の豆州國清寺に在るを聘して開山としたりと云ふ寺域前面に印旛沼を控え背後に城趾の翠山を負ひ風景清絶にして甚だ閑雅以て臼井第一の勝地とすべし元禄年間同書の隠士信斎なるもの境内の觀望を賞して臼井八景を定む飯野霽雪、城嶺夕照、瀬戸秋月、洲崎晴嵐、光勝晩鐘、諸戸舊帆、遠部落雁、舟戸夜雨即是なし
〇(成田参詣記云)瑞湖山圓應寺は臼井田町にあり寺領二十石(天正十九年辛卯十一月)禅宗臨済派にて京師妙心寺に屬す本尊は釋迦如来開山を佛眞禅師と云寺の傳へ臼井興胤幼日家難をさけ鎌倉の佛國禅師による後歸國することを得て志津氏の亂を平らげ佛國の法嗣佛眞を請て此寺の開山とす
〇(下總國舊事考云)圓應寺在臼井田町□□中臼井興胤創建僧佛眞所開也佛眞佛國弟子也佛國有恩于興胤故請之城中有興胤墓臨済宗隷京師妙心寺寺領廿石(天正十九年辛卯十一月)(「印旛郡誌」より)
圓應寺の周辺図
参考資料
- 「佐倉市史」
- 「稿本千葉縣史」
- 「印旛郡誌」