弘法山宝寿院|渋なし蕨の地蔵尊
宝寿院の概要
佐倉市天辺にある真言宗豊山派寺院の宝寿院は、弘法山遍照寺と号します。宝寿院は、寿永年間(1182-1184)頃に京都から来た尼僧が当地に草庵を結んだところ、承久3年(1221)に来た旅僧より渡された地蔵尊を奉安、地蔵堂として創建したといいます。この旅僧をもてなすものが渋い蕨しかないことを嘆いたところ、地蔵尊を信仰すれば渋がなくなると教えられ、以後渋のない蕨が採れるようになったと伝えられています。戦国時代の武将千葉介邦胤は、この地蔵尊の由来を聞き、当寺を一寺に引き立て、弘法山遍照寺寿宝院と号したといいます。境内大師堂は、六崎組十善講15番です。
山号 | 弘法山 |
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院号 | 宝寿院 |
寺号 | 遍照寺 |
住所 | 佐倉市天辺175 |
宗派 | 真言宗豊山派 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
宝寿院の縁起
宝寿院は、寿永年間(1182-1184)頃に京都から来た尼僧(遍照宝寿)が当地に草庵を結んだところ、承久3年(1221)に来た旅僧より渡された地蔵尊を奉安、地蔵堂として創建したといいます。この旅僧をもてなすものが渋い蕨しかないことを嘆いたところ、地蔵尊を信仰すれば渋がなくなると教えられ、以後渋のない蕨が採れるようになったと伝えられています。戦国時代の武将千葉介邦胤は、この地蔵尊の由来を聞き、当寺を一寺に引き立て、弘法山遍照寺寿宝院と号したといいます。
「佐倉市史」による宝寿院の縁起
宝寿院(天辺)
創建は詳らかでないが、当時に安置している地蔵尊については「地蔵菩薩縁起-石田家蔵」によると、寿永(一一八〇年代)の頃、四〇余才の尼僧が京都から来てこの地に草庵を結び結び住んだのが緒で、後承久三(一二二一)年、一旅僧来り、この老尼に地蔵菩薩を渡し、尼はこれを棚の上にまつったのが、その始まりであるという。この尼は寛元四(一二四六)年に入寂した。天辺の”渋なし蕨の話”はこの地蔵信仰にまつわるものである。天正の末年、千葉介邦胤はこの地蔵尊の由来を聞いて従来の庵を改めて寺院とし、弘法山遍照寺寿宝院と号せしめたという。(「佐倉市史」より)
「印旛郡誌」による宝寿院の縁起
寶壽院
天邊村字内山にあり眞言宗にして寶金剛寺末なり地蔵菩薩を本尊とす由緒不詳堂宇間口五間奥行四間三尺境内二百卅七坪(官有地第四種)あり住職は京極盛濟にして檀徒三十八人を有し管轄廳まで四里三十七間なり境内佛堂三宇あり即
一、地蔵堂 地蔵菩薩を本尊とす弘法大師の作と稱す壽永年中の比京都より四十餘才の尼来り茅屋を結ひ日夜弘法大師の寶號地蔵菩薩名號を日課として居住したまふ爾るに承久三辛巳年十月の比一人の旅僧止宿す尼蕨餅を進て曰く我貧にして夏冬蕨を以て活命す恨らくは澁の深きを患ふと語り玉ふに旅僧笈の内より地蔵菩薩を出し此の尊像を信じ奉らば永く澁なからんとて授與し給ふ爾より以来此の山の蕨澁なし弘法大師の惠なるべしと益皈依増し寛延四丙午年三月廿一日寂す法名を遍照寶壽と號す後里人草庵を結ひ敬崇し給ふ爾に天正年中佐倉城主千葉邦胤入國之時天邊村より蕨を献す此時邦胤の恩賜に依て菴を改め弘法山遍照寺寶壽院と號すと縁起に古老傳を載罷在候建物間口二間三尺奥行二間
二、子安觀音堂 子安觀世音を本尊とす由緒不詳建物間口九尺奥行二間なり
三、大師堂 弘法大師を本尊とす文政十一戊子年十月の創立にして建物は間口四尺五寸奥行三尺五寸なり(寺院明細帳)(「印旛郡誌」より)
宝寿院の周辺図
参考資料
- 「佐倉市史」
- 「印旛郡誌」