宝金剛寺|佐倉市直弥にある真言宗豊山派寺院

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皓月山宝金剛寺|岩富城主北条氏勝が再興

宝金剛寺の概要

佐倉市直弥にある真言宗豊山派寺院の宝金剛寺は、皓月山靜覺院と号します。宝金剛寺は、源頼朝が挙兵後に房総へ逃れた際、当地にあった虚空蔵堂に止宿、その話を聞かされた源頼家が北条時政に命じて建仁3年(1203)堂宇を建立、膏油料として300石の地と蜀紅錦の七條を寄進され、(藤原良経の五男)覺濟僧正が開山したといいます。その後火災により衰微したものの、徳川家康の関東入国に際して、北条氏勝が岩富1万石の城主として当地を領有した際、寺領100石、及び八幡宮領10石を寄進して北条氏勝が大檀那となり再興しています。境内大師堂は、六崎組十善講8番です。

宝金剛寺
宝金剛寺の概要
山号 皓月山
院号 靜覺院
寺号 宝金剛寺
住所 佐倉市直弥38-1
宗派 真言宗豊山派
葬儀・墓地 -
備考 -



宝金剛寺の縁起

宝金剛寺は、源頼朝が挙兵後に房総へ逃れた際、当地にあった虚空蔵堂に止宿、その話を聞かされた源頼家が北条時政に命じて建仁3年(1203)堂宇を建立、膏油料として300石の地と蜀紅錦の七條を寄進され、(藤原良経の五男)覺濟僧正が開山したといいます。その後火災により衰微したものの、徳川家康の関東入国に際して、北条氏勝が岩富1万石の城主として当地を領有した際、寺領100石、及び八幡宮領10石を寄進して北条氏勝が大檀那となり再興しています。

「佐倉市史」による宝金剛寺の縁起

宝金剛寺(直弥)
真言宗、大和長谷寺末(旧)。当寺の由来記(宝暦元年撰)には、鎌倉将軍頼家が、亡父頼朝の菩提と源氏の繁昌をとのことから、北条時政を経営の奉行として建仁三(一二〇三)年秋、殿堂を完工させ、入仏の道師は覚済僧正であったとしている。この時、寺領として三百石、萄江の錦の七条を贈ったとある。この開山覚済僧正は関白藤原良経の五男であるとしている。天正十八年徳川家康は江戸入府後、岩富城原氏のあとに、北条氏直の弟氏勝を岩富一万石の城主とした。氏勝は当寺が由緒あるを以て寺領を付し大檀那となり、当寺を保護助成したので、近世では当地方に於ける古刹として重きをなした。(「佐倉市史」より)

「印旛郡誌」による宝金剛寺の縁起

寶金剛寺
直彌村字寺台にあり眞言宗にして長谷寺末なり金剛界大日如来を本尊とす宗祖弘法大師十六世法孫承元二戊辰年三月開基覺濟僧正より当たる時十四世性盛代回禄に及ぶ年月不詳此時古記等悉皆燒亡唯本尊法流開山袈裟一衣而已存在す後慶長年中當岩富村の城主北條氏勝當寺十五世覺朝代再建す後延寶九年三月山城國宇治郡醍醐村三寶院末に相成二十二世宥殿代安永四乙未年香淺青衣二色着用御令旨頂戴罷在候境内九百四十六坪(官有地)ありて老杉天に沖し鐘樓高く聳ゑ客殿の壮麗庫裏の宏壮千戴の松樹自ら昔を語る堂宇間口九間半奥行六間半石塔庭上に満ち奇木珍株陰顯す幽草玄花歩々に開き鳥獣近く遊べば溌剌の鯉魚靈泉に嬉戯す虚空蔵尊を安置せる奥の院客殿なる金剛界大日如来不動明王觀世音更に荘嚴深祟の概あり須弥壇を左に進めば開祖覺濟大師の像あり之を拝するものは御厨子の天井に足跡鮮やかに印せられたるを見るべしこれ實に大師の足跡風俗の不可解不可思議となす所にして古刹名寺たるを失はず住職は京極盛濟にして檀徒一千百十九人を有し管轄廳まで四里六町十九間なり境内佛堂三宇あり即
一、虚空蔵堂 虚空蔵菩薩を本尊とす弘法大師の作にして往古草堂に安置の處治承四年の春征夷大将軍源賴朝公當國に忍び止宿御祈願に依て鎌倉将軍賴家公治世之時建仁元年より北條時政經營す膏油地三百石御璽印を賜はる性盛代回禄の時御墨印共悉燒亡後慶長年中北條氏勝再建寺領百十石を賜はる慶長十四年八月氏勝の沒落に依りて寺領御取り上げに相成候旨縁起罷在候建物間口三間奥行三間
二、釋迦堂 釋迦牟尼如来を本尊とす由緒不詳建物間口一間奥行一間三尺
三、大師堂 弘法大師を本尊とす文政十一戊子年十月創立間口一間奥行一間三尺
〇(寶暦元年撰寶金剛寺由来記)皓月山靜覺院寶金剛寺虚空蔵菩薩は弘法大師の御作なり人皇八十八代高倉院の御時治承四年の春賴朝公御院宣を賜はり義兵を擧げ給ふ時關東の内に城廓に可然地を忍びやかに尋ね給ひき或日此の虚空蔵堂に止宿ましまして晝夜源家の出生を祈誓し願書を北條時政に書かせ納められけり果たして建久三年に征夷大将軍に任せられ天下一統し玉ふも此の本尊の威徳ならずや然りと雖賴朝公私の事多き故にや當時虚空蔵堂御建立の御沙汰もなく御他界なり給ふ賴朝公の御子賴家公又征夷大将軍になり給ひし時或日北條時政此の本尊のことを具さに言上あり賴家公斜ならず御悦びましまして且は亡父の菩提の爲且は源家繁昌の爲なりと時政を經營の奉行として建仁元年より三年癸亥の秋に殿堂廓觀金玉を鏤めて成就せり入佛の道師は覺濟僧正なり膏油の地三百石と御墨印蜀紅の錦の七條とを賜はりながく寺珍となりれり抑も開山覺濟僧正と申すは後京極の關白良經公の五男なり勝賢大徳の御弟子金剛王院寶賢僧正の上足なり覺濟又の名は山本の僧正とも申しき智は顯密を兼ね才は儒玄富り寔に當世の龜鑑なり隠逸の人にて京都の騒しきを厭ひ下總に下り當寺の虚空蔵菩薩を本尊として求聞持の法を修せられき安貞の頃勅命にて随心院に皈落し給ひ上足靜助(僧都に寺をよび法流を付嘱属し給ふ)又長智に嗣法し給ふ此の長智と申すは智道兼備の名僧にて越後の國に行脚し給ふ日賀茂郡長福寺を開基し密教を擴め給ひき此の寶金剛寺をば上足長貴に付與す長貴は絶倫の才ありて下總國海上郡野手村圓長寺を開基す長貴嗣法の弟子長乘に寺を譲る長乘また長譽に付與す長譽また野手圓長寺二世となる覺濟より長譽まで七代は弟子譲なり次に圓印次住譽二代は弟子なり十一代良宣十二代願雄十三代性盛この時回禄に及ぶ御墨印常什物多分燒亡す但し本尊法流錦の袈裟ばかり存せり十四代覺朝は江戸箕田町大聖院覺譽の弟子織田信長の末葉にて武畧にも通じ釋儒の原を究め玉ふ人なり時に小田原早雲五代の孫氏眞の弟北條左衛門太夫氏勝と申すは岩富村の城主にて文武の達人と申し觸れたり寶金剛寺は北條時政の創立殊に住持は智道の名僧と聞しめされ来て旦那と約し自筆にて寺領百石を付與し別に八幡宮の爲に十石は播し玉ふ以上百十石の書跡今に有り其の外をりをり氏勝の消息も今に存せり小田原北條は天正十八庚寅に敗北したれども家康公の氏勝の才智を惜て助け置き給へり慶長十四年已酉秋氏勝謀叛の由讒言ありしかば太閤大きに立腹して石田治部をして岩富に發向し氏勝辞するに地なく坂戸に出張し三日大きに戰ふ漸に一方を切破寶金剛寺に来り切腹す満年四十二實に慶長十四已酉年八月二日也御墓も寺中に在り御椀も今に存せり武具は皆紛失す住持覺朝御別れを歎き玉ひて翌年二月朔日遷化し玉ひ寺を弟子覺秀に付嘱すこの時寺領もとり上げたり中古一度却火の災厄に會し堂宇伽藍炎上に終んぬると同時に燒失せる重要書類寶物什器も尠からず現存する什物の重なるものは左の如し
一、兩部大曼荼羅 慶長二年正月 北條氏勝寄進
一、蝦夷錦切雑七條 仝 仝
一、壁代地色雑色下袴 仝 仝
一、年代記二巻 慶長八年 仝
一、花鬢 仝 仝
一、蜀紅錦七條 源賴家寄進
一、涅槃像 松平左近将監寄進
一、阿字 弘法大師御筆
一、弘法大師 眞雅僧正御筆
一、食膳食椀 北條氏勝持
〇(新撰佐倉風土記云)在直彌村不詳開創年時多蔵岩富城主北條氏勝手状及寄田證書云(「印旛郡誌」より)


宝金剛寺所蔵の文化財

  • 岩富城主北条氏勝寄進資料(佐倉市指定文化財)

岩富城主北条氏勝寄進資料

北条氏勝(一五五九~一六一一)は、小田原北条氏の有力な一族で、玉縄城(鎌倉市)の城主でしたが、天正十八年(一五九〇)の豊臣秀吉による小田原攻めの際には、徳川家康に属し、岩富城を居城とする一万石の大名になりました。岩富城主北条氏勝寄進資料は、氏勝の菩提寺である寶金剛寺に伝来した資料です。
二つの袈裟は、ともに七条で仕立てられ、横被と組にして用いられます。牡丹唐草模様の袈裟・横被は、中国の定陵出土しなの裂とよく似た模様を持っているので、中国製と考えられます。慶長二年(一五九七)に氏勝が寄進した旨の墨書銘があり、当時は寶生寺(横浜市)の末寺であったことが分かります。亀甲梅椿模様の袈裟・横被は、撚りをかけた銀糸を全体にわたって用いて、大柄の模様を織り出した銀欄を使用しています。袈裟には慶長十三年(一六〇八)に氏勝が覚朝僧都に寄進した旨の紙片が縫い込まれていて、正光院・西光寺不動院等の近隣にある末寺によって仕立てられたことが分かります。
三鱗紋蒔絵四重椀は、大小の椀を重ねて、一の椀に収まるようにした入子式の椀です。胴部の三か所に消粉蒔絵で、北条氏の家紋である「三鱗紋」を表しています。
これらは、工芸品としても類例が少なく、中近世移行期の佐倉市域の歴史を知るうえでも貴重な資料です。(佐倉市教育委員会掲示より)

宝金剛寺の周辺図


参考資料

  • 「佐倉市史」
  • 「印旛郡誌」