岩名仁王尊|佐倉市岩名にある真言宗豊山派寺院

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岩名仁王尊|市指定文化財の阿吽金剛力士像

岩名仁王尊の概要

佐倉市岩名にある真言宗豊山派寺院の岩名仁王尊は玉泉寺境外仏堂である毘沙門堂の前衛に祀られる、阿吽の金剛力士像二体で、仁王門に奉安されています。仁王尊は、鹿島川に漂着したと伝えられ、他村の村民が重くて動かせなかったものの、岩名の村民は軽々と持ち運べたことから、岩名の堂尾余(天神堂標)に奉安、後に毘沙門堂のある当地へ前衛として遷したと伝えられます。その創建年代等は不詳ながら、仁王尊像に明応6年(1497)修理の銘が残されていることから、室町時代初期の制作と推定され、佐倉市有形文化財に指定されています。

岩名仁王尊
岩名仁王尊の概要
山号 二峯山
院号 寂号院
寺号 玉泉寺
住所 佐倉市岩名
宗派 真言宗豊山派
葬儀・墓地 -
備考 -



岩名仁王尊の縁起

岩名仁王尊は、玉泉寺境外仏堂である毘沙門堂の前衛に祀られる、阿吽の金剛力士像二体で、仁王門に奉安されています。仁王尊は、鹿島川に漂着したと伝えられ、他村の村民が重くて動かせなかったものの、岩名の村民は軽々と持ち運べたことから、岩名の堂尾余(天神堂標)に奉安、後に毘沙門堂のある当地へ前衛として遷したと伝えられます。その創建年代等は不詳ながら、仁王尊像に明応6年(1497)修理の銘が残されていることから、室町時代初期の制作と推定され、佐倉市有形文化財に指定されています。

境内掲示による岩名仁王尊の縁起

岩名仁王尊縁起
当毘沙門堂は二峯山寂号院玉泉寺(文安元年開山)の境外仏堂にして毘沙門天の尊像を厨子中に安置す。仁王門は丹塗遍く、居然左右に両力士の像を安んじ、御丈七尺余黒貌、垂帷惟だ顔面を拝し得。其の昔弘法大師の作と相伝え簡札には明応年間仏師の修理を得たりと記さる。
伝説には、両体鹿島川を降り岩名畑戸川岸附近に漂来しければ、近郷の人々集りて引揚げんとせしも、他郷の人には仏体重うして耐え難く、岩名人には軽々と運ばるると。されば人々皆尊像の岩名行きを希うものならんとて、仮に堂尾余の地に一堂を造りて安置すと也。然して、霊験あらたかに仏名遠近に轟きければ、やがて現処に移し参らせて毘沙門天の前衛と為せり。尊像は寛永年間再修理、堂宇は金家に改め茅葺の際明和の年号を見出せり。亦毘沙門堂護摩壇裏面には享保の年字を写し出されしも、最古の事は知る由もなし。昔は満域鬱蒼たる杉桧に包まれ一棟の絵馬堂、幾基の石燈籠・三十二段の石階ありて江戸諸国よりの参拝者は引きも切らずと言えるは誠に仏徳の程、窺うに足れり。
国内藩治の折は士人の信仰極めて厚く、堀田家代々の祈願所たりて毎歳仲春馬を馳せて参拝、谷を隔てゝ姿山なる満開の桃花を見物帰還せしなりと言う。
江戸上期の文献には、毘沙門天は寄木法の秘仏にして厨子中に蔵せり。仁王尊は高さ七尺余秀れたる古仏にて霊験極めてあらたかなる御守護神なりと記さる。
ちなみに毘沙門天は開運勝利の守護神、仁王尊は諸病平癒・安産育児の守護神として今尚郷人信仰の的たり。(境内掲示より)

「印旛郡誌」による岩名仁王尊の縁起

毘沙門堂
岩名村字前田にあり玉泉寺境外の佛堂にして毘沙門天を本尊とす堂宇間口三間奥行三間境内四百六十三坪(官有地第三種)あり境内佛堂一宇あり
一、仁王尊 由緒不詳建物間口四間三尺奥行二間
管轄廳まで五里三十二町四間一尺なり(佛堂明細帳)(「印旛郡誌」より)

「佐倉市史」による岩名仁王尊の縁起

玉泉寺(岩名)
当寺の毘沙門堂の前面には仁王堂があって左右に両力士の像を安置している。木片に明応年間(一五世紀末)に仏師の修理をうけたことが記されている。この仁王サマには伝説がある。それは、この仁王両尊が鹿島川を流れ下り岩名の川岸に漂着した。そこで近郷の人々が集って引揚げようとしたが、他村の人々には仏体が重くてあがらないが、岩名の者達は軽々と運ぶことが出来たという。かくて仁王尊は岩名に安置されることになったという。その初めの安置したところは天神堂標と呼ぶ数畝の平地であったが、後に現在地に移し、毘沙門天の前衛に置かれたという。この仁王尊漂着について興味深いのは、鹿島川上流の岩富にこの仁王尊を流したという伝えがあることである(松裏委員報告)(「佐倉市史」より)


岩名仁王尊所蔵の文化財

  • 木造金剛力士立像(佐倉市指定有形文化財)

木造金剛力士立像

「岩名の仁王様」として親しまれているこの木像は、榧材の一木造りで、向かって右側の阿形像(口を空けた像)が一八八センチメートル、左側の吽形像(口を閉じた像)が一八九センチメートルあります。
製作年代は、像の体内に明応六年(一四九七)の修理の記載があることや、様式の特徴等により室町時代の初期と考えられます。(境内掲示より)

岩名仁王尊の周辺図