円城寺|佐倉市城にある浄土宗寺院

猫の足あとによる千葉県寺社案内

光明山円城寺|佐倉市城にある浄土宗寺院

円城寺の概要

佐倉市城にある浄土宗寺院の円城寺は、光明山と号します。円城寺は、千葉介常胤の子で三井寺圓城寺にいた日胤上人が、治承4年の以仁王挙兵に際して源頼政に随従し宇治で戦死、千葉介常胤の一族が日胤上人の菩提を弔うために創建したと伝えられます。永正5年(1508)に大蓮社岸譽上人龍門大和尚が入寺して浄土宗に改宗しています。

円城寺
円城寺の概要
山号 光明山
院号 -
寺号 円城寺
住所 佐倉市城672
宗派 浄土宗
葬儀・墓地 -
備考 -



円城寺の縁起

円城寺は、千葉介常胤の子で三井寺圓城寺にいた日胤上人が、治承4年の以仁王挙兵に際して源頼政に随従し宇治で戦死、千葉介常胤の一族が日胤上人の菩提を弔うために創建したと伝えられます。永正5年(1508)に大蓮社岸譽上人龍門大和尚が入寺して浄土宗に改宗しています。

「佐倉市史」による円城寺の縁起

円城寺(城)
浄土宗清光寺末であった。本尊阿弥陀如来。当寺の起源については既に中世篇鎌倉時代の項で触れて置いたように治承四年、平家討伐のため以仁王挙兵の際、近江の円城寺にいた千葉介常胤の子で僧の日胤も以仁王・源頼政に随い奈良への途中宇治で戦死した。この戦死について千葉大系図の記事を参考にあげる。
日胤 律静一房、江州圓域寺住。頼朝祈願之師。
治承四年、高倉宮赴干南都路、於光明山下為平家中流矢薨。日胤供奉之殞命。後年、常胤一寺於下総印播郡弔彼冥福、号之園域寺。先是、常胤授領所、於日胤滅後、使氏族続其領。其裔代々称園域寺某、
列千葉介家臣矣。
当寺の沿革を知る資料は見られないが松浦委員は寺院誌で次のような調査報告をしている。
△当時の住職は千葉勝胤の代の永正五年十一月七日、大蓮社岸誉上人竜門大和尚入寺して後、浄土寺として今日に至る。とのことをあげている。
△当寺には檀徒深山某唯一のみであるが、これについては
(A)享徳元年八月十二日深山弥十郎、原円城寺抗争の年、同志一三名と共に殉死し
(B)深山外記の墓碑に、当寺本前、万治三庚子年十月二十九日。とある。
当寺本前の外記の宅地は、実は円城寺の北側にある。即ち当円城寺は北面であったであろうか。因みに当寺域は番塚と呼ばれ、外記の宅地は城の家と呼ばれている。
円城寺の本寺清光寺(本佐倉町清光寺作)は京都の智恩院の末寺で芝の増上寺に属し阿弥陀如来を本尊としている。
弘治二(一五五六)年の創立で開山は月峰上人となっている。本末の系列から見ると智恩院-増上寺-清光寺-円城寺となるが、清光寺との本末関係が何時からかは明らかでないが、何れにしても円城寺は室町時代の末期に浄土宗教団の管下に入ったものであろう。(「佐倉市史」より)

「印旛郡誌」による円城寺の縁起

圓城寺
城村字番塚に在り浄土宗にして清光寺末なり座像阿彌陀如来を本尊とす由緒不詳建物間口六間奥行四間三尺境内四百九十二坪(官有地)あり檀徒一人にして管轄廳まで四里一町とす(寺院明細帳)(「印旛郡誌」より)


円城寺の周辺図


参考資料

  • 「佐倉市史」
  • 「印旛郡誌」