勝胤寺|佐倉市大佐倉にある曹洞宗寺院

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常歳山勝胤寺|千葉介勝胤建立

勝胤寺の概要

佐倉市大佐倉にある曹洞宗寺院の勝胤寺は、常歳山と号します。勝胤寺は、本佐倉城主千葉介勝胤が享禄元年(1528)に伽藍を建立、華翁祖芳和尚を開山として創建したといいます。千葉介勝胤は、千葉家歴代より受け継いできた「千葉石」を当寺に奉納、千葉氏累代の菩提寺となり、徳川家康の関東入国に際して天正19年(1591)寺領20石の御朱印状を受領、佐倉市の名刹寺院です。

勝胤寺
勝胤寺の概要
山号 常歳山
院号 -
寺号 勝胤寺
住所 佐倉市大佐倉1467-1
宗派 曹洞宗
葬儀・墓地 -
備考 -



勝胤寺の縁起

勝胤寺は、本佐倉城主千葉介勝胤が享禄元年(1528)に伽藍を建立、華翁祖芳和尚を開山として創建したといいます。千葉介勝胤は、千葉家歴代より受け継いできた「千葉石」を当寺に奉納、千葉氏累代の菩提寺となり、徳川家康の関東入国に際して天正19年(1591)寺領20石の御朱印状を受領、佐倉市の名刹寺院です。

「佐倉市史」による勝胤寺の縁起

勝胤寺(大佐倉)
本尊釈迦如来。詳鳳院末(旧)(成田市土室)。当寺の記録によると、根古谷城(本佐倉)主千葉介勝胤が享禄元(一五二八)年八月十九日、伽藍を寄進し、僧華翁和尚を開山として創建されたとある。本堂の内陣柱掛にも、当山開闢人王百六代后奈良院、享禄元戊子年とあり。また創建について千葉大系図には"勝胤禅宗ニ帰依シ天文元年二月、常歳山勝胤寺ヲ城下ノ浜宿ニ建立ス、慮有テ「千葉石」ラ納メ奉ル。此二於テ花祖芳和尚ヲ以テ天文廿年十二月八日死開山トナス」 と。前記の総寧寺は天正三(一五七五)年、近江より寺基を移してから大いに発展した(前出の笠原・新行氏の著より)というが、勝胤寺もこの頃から栄えたものであろう。当時の記録では第三世の天草和尚が伽草伽藍永久のため若干の田畑を買いその高辻は四十五貫百五十文と記している。この田畑は後、天正十九年辛卯五月六日に検地をうけ、同年十一月、朱印二十石を寺領とされた。同時に年貢や諸役が免除されている。元和三年三月十七日附の徳川秀忠の朱印状(写) は次の如くである。
寺領下総国印播郡大作倉郷之内弐拾石事、任去天正十九年十一月先判之旨、不可有相違之状如件
元和三年三月十七日 御朱印
勝胤寺
この御朱印地の反別は(明治四年現在)田-二町三反九畝一六歩(高一六石七六六)畑-八反三畝一〇歩(高三石二三三)外に境内除地としては田が九反六歩、畑一反九畝三歩で、寺領の田畑合計は四町三反三畝五歩であった。
これらの田畑は、江戸時代には門前百姓六軒に耕作させて寺の得米とし、他に近在の百姓に小作させて財政的にも安定していた。(篠丸頼彦・佐倉藩に於ける農民の経営規模井新田開発1 『房総地理・第八巻』) また境内堂宇の規模についても近世の絵図や記録もあるので、これらについても後の篇で述べる。
以上のような次第で、千葉家の加護によって開創発展した佐倉地方の名刹である。また当寺には中世末の文書を所蔵している。この文書は既に『千葉県史料・中世篇・諸家文書』に収録されているが、それを左に。
一、総持寺五院住持連署公帖・享禄二年
一、浅野長・木村一連署添状(折紙)・天正十八年(前掲)
である。なお境内墓地には勝胤の宝篋印塔ほか五輪塔がある。(「佐倉市史」より)

「稿本千葉縣史」による勝胤寺の縁起

勝胤寺
同郡同上(印旛郡舊印旛郡)内郷村大字大佐倉字濱宿にあり、境内三千三百坪、曹洞宗なり。享禄元年八月千葉勝胤之を創建し、僧祖芳(華翁)を以て開山となす。天正十九年十一月徳川氏寺領二十石を付す、寺二千葉氏の什器數件を蔵し、境内に勝胤以下の墓數基あり。庭内に小泉あり千葉水と云ふ、勝胤の常に飲用せし所なりと云ふ(「稿本千葉縣史」より)

「印旛郡誌」による勝胤寺の縁起

勝胤寺
大佐倉區字濱宿にあり曹洞宗常歳山と號す祥凰院の末なり釋迦如来を本尊とす(或云觀音菩薩と)桓武天皇二十九代の孫千葉之介平朝臣勝胤享禄元年戊子年八月十九日伽藍を寄進し皈依の僧華翁和尚を開山とし第三世の僧秣和尚伽藍維持の爲若干の田畑を買得し高辻四十五貫百五十文の地所と明記あり其後天正十九年辛酉五月六日時の政廳より調査を受け貫高を石高に變還し古来の由緒を以て仝年十一月朱印二十石となし免税地に下し給はる寺格は常法幢地なり元禄十二年五月中舊佐倉城主稲葉丹後守より常法幢會維持のため御求地の内印旛郡惣深新田に於て松林五町歩寄附せられ其の後享保年間に至り遠隔の地故に右松林を賣却し仝郡飯仲村に於て林畑地を買収し田畝七町反九畝三歩の地なり方今三分通り開墾して伽藍維持の資料となす堂宇間口七間奥行十一間庫裡間口六間奥行七間裏門口五間奥行七間境内三千三百坪(民有地第一種)あり高原隆光住職にて檀徒二百五人を有し管轄廳まで六里あり境内佛堂一宇あり即
一、觀音堂。正觀世音菩薩を本尊とす由緒不詳建物間口二間奥行二間なり。仝寺内寶物として石銅函あり其の表面ゐる彫刻銘に云
千葉石銅函之銘
千葉石
此石者祖先良文以来當家授受之重器也天文人身春勝胤寄納之於當寺爾来踰十紀矣方今與當住持學和尚胥議而命鑄工伊藤光信新製銅函蓮座而安石於其中以奉納焉聊表追遠萬乙者也且系譜幷石証文者収在予家胤自筆之
寛文壬子仲春吉辰
千葉介 平正胤
妻 眞壁氏女
嫡嗣 千葉平尚胤
表面には
寄納常蔵山勝胤寺
醍醐天皇勅號
千葉石
千葉介平正胤
千葉介平尚胤
臺座の裏には
千葉石蓮座
千葉石蓮座
正面には
無量壽佛
蓋の裏には
寄納銅函弌箇
千葉石
常歳山勝胤寺
とあり
其他木製の朱皿にて小杉なるもの九枚大形なるもの十五枚真鍮製陣皿にして船形なるもの八枚鎧形なるもの十枚古鏡一面は圓形にて經四寸の唐銅製蝦夷錦の敷物化石具一個華翁畫像一軸勝胤畫像一軸あり(寺院明細帳郷土誌)
〇(大日本地名辞典)享禄年中千葉介勝胤の建てし所にして子孫六世の墓域中に存す又其文書及び遺器をつたへたり
(中略)
〇(日本名勝地誌云)勝胤寺は常歳山と號す内郷村大字大佐倉に在り曹洞宗にして土室の祥凰院に隷し釋迦如来を本尊とす享禄元年千葉介勝胤の草創に係り開山の僧を華翁祖芳和尚と云ふ域内勝胤以下千葉氏數代の墓碑ありと雖今は罷免の文字概ね摩滅し盡して何人の墓なるやを詳にし難し庭内又小池あり之を千葉水と名く池邊の一古松鬱茂繁育して水上に陰翳せり
〇(下總國舊事考云)勝胤寺在大佐倉村□□中千葉勝胤創建僧華翁祖芳所開也(天文廿年十一月八日寂)域中有勝胤昌胤利胤親胤富胤邦胤等墳蔵千葉氏遺器及古文書隷埴生郡土室龍凰院寺領二十石(天正十九年辛卯十一月附)(「印旛郡誌」より)


勝胤寺の周辺図