教安寺|佐倉市新町にある浄土宗寺院

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二尊山教安寺|花井左門の内室東専院殿松誉春貞大姉を開基

教安寺の概要

佐倉市新町にある浄土宗寺院の教安寺は、二尊山東専院と号します。教安寺は、花井左門(浄徳院殿雲竜心白居士)の夫人東専院殿松誉春貞大姉を開基として、欣蓮社厭道波大和尚を開山に迎え寛永2年(1625)創建したといいます。花井家は松平忠輝の家老職を務めていたものの忠輝の失脚に伴い、佐倉城主に「お預け」となっていたといいます。また、金堂地蔵菩薩坐像は佐倉市有形文化財に指定されています。

教安寺
教安寺の概要
山号 二尊山
院号 東専院
寺号 教安寺
住所 佐倉市新町140
宗派 浄土宗
葬儀・墓地 -
備考 -



教安寺の縁起

教安寺は、花井左門(浄徳院殿雲竜心白居士)の夫人東専院殿松誉春貞大姉を開基として、欣蓮社厭道波大和尚を開山に迎え寛永2年(1625)創建したといいます。花井家は松平忠輝の家老職を務めていたものの忠輝の失脚に伴い、佐倉城主に「お預け」となっていたといいます。

「印旛郡誌」による教安寺の縁起

教安寺
佐倉新町字肴町南側にあり浄土宗鎮西派にして傳通院末なり阿彌陀如来を本尊とす寛永六年中花井左門創立厭譽同波和尚開山其他由緒年月不詳堂宇間口八間五分奥行七間栗間口五間奥行三間境内六百六十つぼ(官有地第四種)あり住職は花井見随にして檀徒五百五十六人管轄廳まで四里三十一町なり境内佛堂二宇あり即
一、観音堂。千手観音を本尊とす由緒不詳建物間口三間奥行二間五尺なり
二、大師堂。弘法大師を本尊とす由緒不詳建物間口一間奥行一間四尺五寸なり(寺院明細帳)(「印旛郡誌」より)

境内掲示による教安寺の縁起

教安寺縁起
二尊山東専院教安寺と称し、京都知恩院を總本山とし東京小石川傳通院を本寺とす。佐倉城主土井利勝公の時にその「預り人」の花井左門が内室東専院殿松誉春貞大姉を開基とし、欣蓮社厭道波大和尚を迎えて城主の外護のもと寛永二年(一六二五)教安寺を創建した。今を去る三六七年前なり。
花井左門の父は花井遠江戸守吉成と称し徳川家康公に仕え、その側室於茶阿の局の生める第六子松平忠輝の家老となり信州松代海津城六万石を領す。母は於茶阿の局が先夫の子にして忠輝とは異父の姉に当る。忠輝は伊達政宗公の息女五郎八姫と婚を結び慶長十五年越後高田六十万石の大守となるも父家康の遺言として、二十五歳の元和二年領地を没収され配流を重ねて信州諏訪城主の「預り人」として天和三年、九十二歳の長寿を以て数奇な生涯を終る。此の事件に花井家は補佐の責を以て花井左門も佐倉城主の「預り人」となり後ち家人として松平左門を称し万治二年七月十日寂す。法号は浄徳院殿雲竜心白居士、昭和五十三年八月傳通院にありし墓石を當寺の開基の墓域に遷す。
貞享、宝永の類災にて堂宇焼失し享保初年(一七一六)にほぼ復興したるも明治維新の大変革、加うるに明治三十五年九月の大暴風雨のため本堂は半潰し解体の上その古材を以てかろうじて再建された。大正十五年十月書院、庫裡の再建なるも戦後の昭和二十五年の農地法に依り一切の供養田畠を失う。
幾多の変遷免れ難くその銘文に寺の歴史を良く傳えた宝暦十年鋳造の梵鐘も銘文を残すのみにて幕末の安政二年海防に供され更に今より二七三年前の享保二年に八代目の桜城主稲葉正知公により再鋳され「佐倉八景」にも詠ぜられた大手門鐘楼堂の「時の鐘」は明治四年の廃藩置県の頃、教安寺に移され市民に親しまれたるも、奇しく銘文のみを残して宝暦の梵鐘と運命を共にした。供出代金四五六円五七銭也、噫々無常なるかな。
戦後三十年の昭和五十二年三月教安寺創建三五〇年を慶祝して檀信徒並に市民の協力により大梵鐘を鑄造して享保の名鐘を再生し英霊の冥福をすすめ平和祈念の妙音は印旛沼畔に響き渉り、昭和六十二年には三上人御遠忌を奉謝して本堂屋根大改修の悲願を達成した。
開創以来三六〇余年の星霜を閲し、世代を重ねること二十二世なり。
第二十二世謙誉(境内掲示より)


教安寺所蔵の文化財

  • 金堂地蔵菩薩坐像(佐倉市指定文化財)

金堂地蔵菩薩坐像

像高一〇〇・二cm、八葉蓮座の上に座し、体躯の法衣部分は背部・膝部・前体部と三部分に分けて鋳造され、頭部は首から上部を一体鋳造し、両手首は夫々別鋳となっている。顔及び法衣の掛からない胸部分は鍍金されている。後背および錫杖の杖部分は鉄製で後補である。後背の上部、左右の三ヶ所に宝珠が付されている。
銘文によればこの像は享保六年(一七二一)に「三界万霊供養」のために造立され、蓮座に浄財供養の百四十余名の霊名が刻されている。鋳物師伝兵衛延長は西嶋伊賀守鋳物師田村半右衛門の弟子と考えられる。
近世の金銅像として優れた作品であり庶民信仰を知る上で歴史的な価値も認められる。(佐倉市教育委員会掲示より)

教安寺の周辺図