正福院|印旛郡酒々井町尾上にある真言宗豊山派寺院

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揚柳山正福院|佐倉組十善講内郷組

正福院の概要

印旛郡酒々井町尾上にある真言宗豊山派寺院の正福院は、揚柳山観音寺と号します。正福院の創建年代等は不詳ながら、かつては佐倉牧土京増健右衛門家の寄進による本堂・仁王門・鐘楼堂を備えた寺院だったとされます。境内大師堂三宇は、廃寺延命寺の大師堂などが移されたものと思われ、佐倉組十善講内郷組札所と思われます。

正福院
正福院の概要
山号 揚柳山
院号 正福院
寺号 観音寺
住所 印旛郡酒々井町尾上359
宗派 真言宗豊山派
葬儀・墓地 -
備考 -



正福院の縁起

正福院の創建年代等は不詳ながら、かつては佐倉牧土京増健右衛門家の寄進による本堂・仁王門・鐘楼堂を備えた寺院だったとされます。

「酒々井町史」による正福院の縁起

正福院
揚柳山正福院は尾上字馬場三五九にあり、観音寺の寺号をもつ三号揃った寺院である。真言宗豊山派東光寺の末寺で、本尊は大日如来である。
由緒
開基そのほかの由緒については知ることが出来ないが、明治三年の「明細帳」(社寺総代所有文書)によると、住持輪憧が居り、尾上字台畑の子安観音、墨高野台の観音堂は正福院持と記されている。「宗教法人台帳」には本堂三五坪、庫裏一五坪などが記載されており、大きな寺院であったことがわかる。旧本堂、仁王門、鐘楼堂があって、これは佐倉牧土京増健右衛門家の寄進によるものと伝えられているが、火災のため一切を焼失して詳しいことはわからない。
石仏 入り口付近の荒地の中に三基の供養碑がある。右側のものは天明四年(一七八四)の造立で、表面に「キヤカラパア」の五輪塔に用いる梵字が、側面には「弘法大師九百五十年遠忌」とあり、台石には「楊柳山」の山号が彫られている。これと並んで笠付六角形六地蔵がある。造立は嘉永三年(一八五〇)で石質は勝れているが、全部の顔がこわされている。左側には寛政九年(一七六七)造立の観音経千部供養碑があり、「観音寺」の寺号が彫られている。
本堂裏山の中段にあるお堂には如意輪観音と地蔵菩薩が祀られているが、このうちの寛延三年(一七五〇)のものに童子・童女二一人の戒名が記されているのは、この頃、伝染病の琉行があって、多くの子供が亡くなったための悲しい供養碑であろう。
牧士の墓 裏山の墓地には六地蔵のほかに、佐倉三牧方代々の牧士であった、京増健右衛門・喜右衛門・喜左衛門の墓、江戸末期の歌人神山魚貫(久住村)の門人であった京増春樹の墓がある。
現在、境内には尾上青年館が同居しているが、本堂と大師堂三棟がある。一寺に三大師堂があるのは珍しいが、これは字御手洗にあった廃寺延命寺の大師堂などが移されたものと思われる。(「酒々井町史」より)

「印旛郡誌」による正福院の縁起

正福院
尾上村字馬場にあり眞言宗にして東光寺末なり大日如来を本尊とす由緒不詳堂宇間口六尺奥行六尺あり住職は酒井諦全にして檀徒三十五人を有し管轄廳まで五里三十町なり境内佛堂二宇あり即
一、大師堂 弘法大師を本尊とす由緒不詳建物間口六尺奥行六尺
二、觀音堂 觀世音菩薩を本尊とす由緒不詳建物間口二間半奥行二間なり(寺院明細帳)(「印旛郡誌」より)


正福院の周辺図


参考資料

  • 「酒々井町史」
  • 「印旛郡誌」