船越鉈切神社|西岬のなたぎり神社の上の宮、鉈切洞穴
船越鉈切神社の概要
船越鉈切神社は、館山市浜田にある神社です。船越鉈切神社の創建年代等は不詳ながら、海南刀切神社と併せて一社とし、当社を上の宮、海南刀切神社を下の宮として「西岬のなたぎり神社」と称されてきたといいます。伝承によれば、「神が船に乗ってこられたこと、この浜に上陸されてから、手斧をもって、巨岩を切り開いて路を通じた」ことから船越と刀切の二社が祀られたとも、或は「海中から出現した神が当地に住んでいた大蛇を、なたで退治したので、なた切の称号を奉り、船越大明神というのは、年々竜宮からここに船が来るからである」ともいいます。社殿の奥には奥行き36.8メートルの鉈切洞穴があり千葉県指定史跡となっています。
社号 | 船越鉈切神社 |
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祭神 | 豊玉姫命 |
相殿 | - |
境内社 | - |
例祭日 | 例大祭:かっこ踊り7月15日 |
住所 | 館山市浜田376 |
備考 | - |
船越鉈切神社の由緒
船越鉈切神社の創建年代等は不詳ながら、海南刀切神社と併せて一社とし、当社を上の宮、海南刀切神社を下の宮として「西岬のなたぎり神社」と称されてきたといいます。伝承によれば、「神が船に乗ってこられたこと、この浜に上陸されてから、手斧をもって、巨岩を切り開いて路を通じた」ことから船越と刀切の二社が祀られたとも、或は「海中から出現した神が当地に住んでいた大蛇を、なたで退治したので、なた切の称号を奉り、船越大明神というのは、年々竜宮からここに船が来るからである」ともいいます。
「船越鉈切神社・海南刀切神社案内図」掲示による船越鉈切神社の由緒
船越鉈切神社(浜田)
船海神である豊玉姫命を祀った神社で、奥の鉈切洞穴は、およそ6,000年前の縄文海進のときにできた海食洞穴。縄文時代後期から使用され、古墳時代には墓として利用され、その後信仰の場に変わった。毎年7月の祭礼では雨乞いの芸能であるかっこ舞が演じられる。(「船越鉈切神社・海南刀切神社案内図」掲示より)
「千葉県神社名鑑」による船越鉈切神社の由緒
『房総志料続編』巻一二に、「浜田と塩見の境に手斧切神明といふあり。道を隔てて左右二社有。上の祠下の祠といふ。上の祠の側に大成石窟有。昔手斧切明神使神をして霊区を求む。使神此の地の霊なるを愛し、窟に隠れて復命せず、主神大に怒り、来り責むれどもつひに出ず。故に主神やむを得ず、今の下祠を領すと。下祠を鉈切明神といふ、上祠を舟越明神といふ云々」。当社は即ちこの上宮で、中世当地の領主の崇敬篤く、社殿の修築、社領の寄進等のあったことが伝えられている。創建は神亀元年と伝えられる。(「千葉県神社名鑑」より)
「館山市史」による船越鉈切神社の由緒
船越鉈切神社
海南刀切神社
国鉄バス、西岬駅の近く、県道をはさんで二社相対して鎮座まします。
山側(南)の浜田区に在るのを船越鉈切神社。海側(北)の見物区に在るのを海南刀切神社という。
船越鉈切神社の本殿は洞窟の中に建てられ、海神(わたつみのかみ)の御子、豊玉姫命を祀る。
海南刀切神社の本殿は、高さ約一〇メートル、真っ二つに分かれている、異様な形の巨岩の前に建てられており、刀切の大神を祀る。
現在では両社の祭神名も異なり、また別々に祭祀も行うので、それぞれ独立した神社になっているが、かつては奉祀する村は違っても、両社ともに一社一神と見なされ、互に分かち難く崇敬されてきたようである。今でも一般の人々は「西岬のなたぎり神社」といえば両社のことをいい、そのいずれの一社だけを「なたぎり神社」とは呼んでいない。
『房総叢書』と『安房郡誌』には、「南に在るのを船越神社といい、北に在るのを刀切神社といって、一神でありながら、船越と刀切の二つの御名があるのは、むかし、この神が船に乗ってこられたことと、この浜に上陸されてから、手斧をもって、巨岩を切り開いて路を通じたからである」という伝承を記している。しかし、元禄八年(一六九五)の文書には、「なた切大明神は海中から出現した海神であるが、この地に住んでいた大蛇を、なたで退治して人民の苦しみを救ってくれたので、なた切の称号を奉り、船越大明神というのは、年々竜宮からここに船が来るからである」としている。この文書は、水戸光圀が「大日本史」を編さんするために派遣した、石井弥五兵衛(三朶花)に「御尋ニ付、伝承リ候分以書付奉由。上候」と差出したもので、本文に続いて、上之宮別当浜田村高性寺、下之宮別当塩見村宝蔵寺や神主、名主、年寄の名、が連署してある。いずれにしても「なた切神社」の別名が「船越神社」であったことo。今の船越蛇切神社を上の宮、海南刀切神社を下の宮といったことなど、全く一つの社としていた事を物語っている。
また海南刀切神社裏の巨岩が真っ二つに割れているのは、人々を苦しめた大蛇が、このあたりの紫ノ池に住んでいたので、再び災厄の起こるのを防ぐため、神が鉈でこれを両断し池の水を抜いたからである、ともいわれている。この伝承にはまた、神が大蛇を退治して、人身御供にあがった長者の娘を救った、という話もついている。船越鉈切神社の祭神は、かつて櫛稲田媛命だとする説(『房総志料』)もあった。命は素戔嗚尊の大蛇退治によって救われ、後に尊の妃になった神である。船越鉈切神社の本殿がしずまる洞窟は、浜田洞窟住居跡として県指定史跡となっているが、(文化財の項参照)昔、この洞窟に逃げ込んだ犬が、遠く離れた犬石村や滝口村で発見されたとか、一修験者が洞窟内部をきわめようとして犬を連れて入ったところ、三日の後に犬は帰ったが修験者はついに帰らなかった、というように、神秘的な奥深さを暗示する伝説もあるが、昭和三十一年九月の千葉県学術調査団の報告では、最奥部までの距離は三六・八メートルで、もちろん奥は行き止りである。もっとも、この種の伝説は、人々に怖れをいだかせ、みだりに神域を汚させないためのものであった。
また、船越鉈切神社に一隻の独木舟が、宝物として所蔵されているが、元禄の差上書にいう竜宮から流れ付いた舟である。(市指定民俗資料/文化財の項参照)この独木舟にもいろいろな話が伝わっているがその一つに、昔村人が漁をしていると、幣束を立てた無人の舟が漂ってきた、人々は船を近づけ、四方から取囲んだ、しかし、この舟は右に左に素早く走り廻り、果ては伊豆大島の方ヘ矢のように走り去ってしまった。するとその夜、船越山に多勢でものを引き上げるような声がし、朝になると昨日の舟が、幣束を立てたまま神前に供えであった。村人たちは、これをただ神のなぜるわざとして畏れ敬ったという。
なたぎり神社は、地元漁民の信仰はもちろんだが、対岸の船形、富浦の漁民の信仰も厚く、境内から時折り中天高く昇る「竜灯」という光ものを見る時は、必ず豊漁であると信じられていた。例祭は、両社ともに七月十四・十五日。この日かっこ舞が奉納される。(「館山市史」より)
船越鉈切神社所蔵の文化財
- 鉈切洞穴(千葉県指定史跡)
- 独木船(館山市指定文化財)
- 鰐口(館山市指定文化財)
- かっこ舞(館山市指定文化財)
鉈切洞穴
この洞穴は、房総半島の南端・館山湾に面した標高約二五メートルの海岸段丘に位置する海蝕洞穴で、入口の高さは最高部四・一九メートル、幅員は、洞穴開口部で五・八五メートル、開口部から最奥部までの距離は、三六・八メートルの大きさである。昭和三十一年の調査で縄文時代後期に属する土器を主体に、骨角剃・釣鈎・刺突具・牙製組合せ鈎・土錘等の原始漁撈具が多量の魚類遺存骨とともに発見された。縄文式文化期の遺物を出土する洞穴としては本県を代表するものである。
また、この洞穴は古墳時代に一部が墓として利用され、その後は海神を祀る神社として地元漁民の信仰対象となり、現在は船越鉈切神社の本殿がおかれている。(千葉県教育委員会・館山市教育委員会掲示より)
より)
船越鉈切神社の周辺図
参考資料
- 「千葉県神社名鑑」
- 「館山市史」