海南刀切神社|西岬のなたぎり神社の下の宮
海南刀切神社の概要
海南刀切神社は、館山市見物にある神社です。海南刀切神社の創建年代等は不詳ながら、船越鉈切神社と併せて一社とし、当社を下の宮、船越鉈切神社を上の宮として「西岬のなたぎり神社」と称されてきたといいます。伝承によれば、「神が船に乗ってこられたこと、この浜に上陸されてから、手斧をもって、巨岩を切り開いて路を通じた」ことから船越と刀切の二社が祀られたとも、或は「海中から出現した神が当地に住んでいた大蛇を、なたで退治したので、なた切の称号を奉り、船越大明神というのは、年々竜宮からここに船が来るからである」ともいいます。
社号 | 海南刀切神社 |
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祭神 | 刀切大神 |
相殿 | - |
境内社 | - |
例祭日 | 例大祭:かっこ踊り7月15日 |
住所 | 館山市見物788 |
備考 | - |
海南刀切神社の由緒
海南刀切神社の創建年代等は不詳ながら、船越鉈切神社と併せて一社とし、当社を下の宮、船越鉈切神社を上の宮として「西岬のなたぎり神社」と称されてきたといいます。伝承によれば、「神が船に乗ってこられたこと、この浜に上陸されてから、手斧をもって、巨岩を切り開いて路を通じた」ことから船越と刀切の二社が祀られたとも、或は「海中から出現した神が当地に住んでいた大蛇を、なたで退治したので、なた切の称号を奉り、船越大明神というのは、年々竜宮からここに船が来るからである」ともいいます。
「船越鉈切神社・海南刀切神社案内図」掲示による海南刀切神社の由緒
海南刀切神社(見物)
船越鉈切神社とは、かつてひとつの神社として信仰されていた。本殿の裏に2つに割れたような大きな岩があり、神様が浜から上陸するときに手斧で切り開いて道をとおしたという話や、紫ノ池に住む大蛇がわるさをするので、池の水を抜くために神様が鉈で岩を切ったなどといった伝承が残されている。浜田と同様に、7月の祭礼でかっこ舞が演じられる。(「船越鉈切神社・海南刀切神社案内図」掲示より)
「千葉県神社名鑑」による海南刀切神社の由緒
由緒に関する記載なし(「千葉県神社名鑑」より)
「館山市史」による海南刀切神社の由緒
船越鉈切神社
海南刀切神社
国鉄バス、西岬駅の近く、県道をはさんで二社相対して鎮座まします。
山側(南)の浜田区に在るのを船越鉈切神社。海側(北)の見物区に在るのを海南刀切神社という。
船越鉈切神社の本殿は洞窟の中に建てられ、海神(わたつみのかみ)の御子、豊玉姫命を祀る。
海南刀切神社の本殿は、高さ約一〇メートル、真っ二つに分かれている、異様な形の巨岩の前に建てられており、刀切の大神を祀る。
現在では両社の祭神名も異なり、また別々に祭祀も行うので、それぞれ独立した神社になっているが、かつては奉祀する村は違っても、両社ともに一社一神と見なされ、互に分かち難く崇敬されてきたようである。今でも一般の人々は「西岬のなたぎり神社」といえば両社のことをいい、そのいずれの一社だけを「なたぎり神社」とは呼んでいない。
『房総叢書』と『安房郡誌』には、「南に在るのを船越神社といい、北に在るのを刀切神社といって、一神でありながら、船越と刀切の二つの御名があるのは、むかし、この神が船に乗ってこられたことと、この浜に上陸されてから、手斧をもって、巨岩を切り開いて路を通じたからである」という伝承を記している。しかし、元禄八年(一六九五)の文書には、「なた切大明神は海中から出現した海神であるが、この地に住んでいた大蛇を、なたで退治して人民の苦しみを救ってくれたので、なた切の称号を奉り、船越大明神というのは、年々竜宮からここに船が来るからである」としている。この文書は、水戸光圀が「大日本史」を編さんするために派遣した、石井弥五兵衛(三朶花)に「御尋ニ付、伝承リ候分以書付奉由。上候」と差出したもので、本文に続いて、上之宮別当浜田村高性寺、下之宮別当塩見村宝蔵寺や神主、名主、年寄の名、が連署してある。いずれにしても「なた切神社」の別名が「船越神社」であったこと。今の船越鉈切神社を上の宮、海南刀切神社を下の宮といったことなど、全く一つの社としていた事を物語っている。
また海南刀切神社裏の巨岩が真っ二つに割れているのは、人々を苦しめた大蛇が、このあたりの紫ノ池に住んでいたので、再び災厄の起こるのを防ぐため、神が鉈でこれを両断し池の水を抜いたからである、ともいわれている。この伝承にはまた、神が大蛇を退治して、人身御供にあがった長者の娘を救った、という話もついている。(「館山市史」より)
海南刀切神社の周辺図
参考資料
- 「千葉県神社名鑑」
- 「館山市史」