金剛山不動院|里見義実が守護仏としていた不動尊
不動院の概要
真言宗智山派寺院の不動院は、金剛山遍照寺と号します。不動院の創建年代等は不詳ながら、当寺本尊不動尊については、将軍足利義教との戦いに敗れて相模国三浦に落ちのびた里見義実が、嘉吉元年(1441)に安房へ赴く途次に大山不動尊を参詣、安房への途次で大山不動尊と同木・同作の不動尊にめぐりあったことから、当不動尊像を守護仏としていたといいます。安房国平定に際して不動尊を随身できなかったことから当院へ安置を依頼、第九代里見義康は、天正17年(1589)当院建立を申し出て一院となしたといいます。
山号 | 金剛山 |
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院号 | 不動院 |
寺号 | 遍照寺 |
住所 | 館山市北条1158-1 |
宗派 | 真言宗智山派 |
縁日 | - |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
不動院の縁起
不動院の創建年代等は不詳ながら、当寺本尊不動尊については、将軍足利義教との戦いに敗れて相模国三浦に落ちのびた里見義実が、嘉吉元年(1441)に安房へ赴く途次に大山不動を参詣、安房への途次で大山不動尊と同木・同作の不動尊にめぐりあったことから、当不動尊像を守護仏としていたといいます。安房国平定に際して不動尊を随身できなかったことから当院へ安置を依頼、第九代里見義康は、天正17年(1589)当院建立を申し出て一院となしたといいます。
「館山市史」による不動院の縁起
当寺は、金剛山不動院と号する。当寺の『略縁起』によると、
本尊不動明王は、当国館山城主里見の始組、
里見刑部少輔義実の父、家基が結城氏朝とともに、足刺持氏の遺子、安王、春王を奉じて下野国、結城城(茨城県結城市)に篭城し、将軍足利義教と戦って、戦運利なく、城は遂に落城した。家基は、落城の際に、義実に遺訓して、ひそかに、城をのがれて再挙を図るようにと、家巨木曽右馬蒸氏元、堀内蔵人貞行をお供に、相模国三浦に、落ちのびさせた。次いで嘉吉元年(一四四一)二月、義実が安房国へ赴いたとぎ、相州大山不動明王へ参詣し、通夜したところ、不思議にも霊夢を見て、心願成就と喜び、早速、当国へ向った。その途中、路辺に一つの辻堂があった。不思議なことに、その堂の前で馬がいななき、身振いして立ちすくんだので、義実驚き、その堂を開いてみると、不動尊が安置されてあった。義実は仏前に礼拝している者を呼んで、尋ねたところ、その者がいうには、この不動尊は、大山不動尊と同木、同作の霊仏であると申し上げ、その堂に伝わる縁起を差上げた。義実が、縁起を読んでみると、良辨の作、大山不動尊と同木、同作と記されてあった。さては、大山不動尊の霊夢、殊に馬につけ、かれこれ、われに有縁の尊像である。われ、もし一国の城主となったならば、一宇を建立して安置し奉るであろうと、船に移して随身なされたところ、途中、暴風雨が起り、船が危くなったので、義実は、不動尊に向い丹裁をこめて祈願したところ、不思議にも、不動尊、光明を放ち、船中を照したので、たちまち、順風となって、船は、無事当国白浜へ着いた。その頃当国は、金丸景貞の家臣、山下左衛門定兼が謀反を起して、主君景貞を滅ぼして、自ら神余郡の主となって、神余郡を山下郡と改称した。ところが、丸民部信朝、安西伊予守景春は、山下左衛門定兼の無道をにくみ、互に力を合せ、定兼を滅ぼした。しかし、その後、丸、安西の両氏は、金丸氏の旧領地の分割について、利害関係から衝突し、遂に戦端を開いた。義実は、安西を助けて信朝を討った。また東条常政も安西に味方したので、丸氏は戦に敗れ滅亡した。ここにおいて、安西景春は、安房、平、朝夷の三郡を押領して勢力を振い、義実の功労を賞して白浜城主とした。しかし、義実は、安西に屈服するをいさぎよしとせず、機を見て安西打倒を考えていた。そうするうちに、義実の威望は、日に加わり、丸、金丸の家臣の浪人も、その配下に集り、義実を大将と頼み、安西討伐を図った。義実は、機到来とみて、文安二年(一四四五)六月、兵を挙げ、白浜を発して千代(三芳村滝田)に出陣した。一方、安西景春もこれを聞いて、兵を率いて滝田河原に打って出たが、里見の軍勢に怖れをなし、一戦を交えないで降伏した。そこで、義実は、東条左衛門常政を、金山械に攻め滅ぼした。これによって、義実は、完全に安房国を平定した。その間、度々の合戦に、義実は、かの不動尊の随身が出来なかったので、どうしようかと思案していた折、不動院へ参詣し、当院三代鏡秀に、右のわけを話して、彼の不動尊を当院へ安置したいと、申し出たので、鏡秀は心よく承知して当院へ安置した。そこで義実は、将来本堂を建立しようと、祈願して帰城した。それから里見家は、代々参詣並びに願状を奉納した。その後、第九代里見義康が、天正十七年(一五八九)に館山城を普請したとき、先祖義実の遺言もあるので、当院八代頼祐の時、当院建立を申し出て、護摩堂を建立し、不動尊を安置した。昔は、金剛山遍照寺と号したが、不動尊を安置してから、寺号を金剛山不動院護摩堂と改称した。なお、義康は、永々造営のために、拾弐石を寄進した。
と伝えている。その後、幾多の変遷を経て、明治七年、法印孝林の代に、不動堂を再建したが、関東大震災で倒壊し、現在の不動堂は、それ以後に建立されたものである。正面に「遍照密寺」の大額が掲げられており、その他、昔の護摩堂当時の作と思われる竜の彫刻などが保存され、盛時をしのぶことができる。境内に、天保十二年六月十八日(一八四一)、丸屋三右衛門の出羽三山参拝記念碑と法印孝林の碑が建っている。また、境内の飛石に、昔、使用された石臼が沢山用いられているのは珍しい。(「館山市史」より)
金剛山不動院の周辺図