獅子吼山総持院|安房国司源親元の発願によって建立
総持院の概要
真言宗智山派寺院の総持院は、獅子吼山慈眼寺と号します。総持院は、永長2年(1097)安房国司源親元の発願によって建立、十六坊舎を擁した真言宗の名刹寺院で、「沼の大寺」と呼ばれていたといいます。戦国時代には里見義康公より高10石の寄進を受け、真言宗安房十本寺の一つとされ、また江戸期には幕府より寺領10石の御朱印状を受領していました。
山号 | 獅子吼山 |
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院号 | 総持院 |
寺号 | 慈眼寺 |
住所 | 館山市沼1139 |
宗派 | 真言宗智山派 |
縁日 | - |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
総持院の縁起
総持院は、永長2年(1097)安房国司源親元の発願によって建立、十六坊舎を擁した真言宗の名刹寺院で、「沼の大寺」と呼ばれていたといいます。戦国時代には里見義康公より高10石の寄進を受け、真言宗安房十本寺の一つとされ、また江戸期には幕府より寺領10石の御朱印状を受領していました。
境内掲示による総持院の縁起
真言宗智山派、本尊は不動明王。獅子吼山慈眼寺總持院と号する。
中世には真言密教の道場として栄え、往時は坊舎が十六棟あり「沼の大寺」と言われていた。十六世紀、中興・頼全上人の時代には真言宗・安房十本寺の一つに数えられた。
戦国時代、里見義康公より朱印十石を賜り里見氏の祈願寺となり、山号も里見にならい、三富山とも称した。その後、自身、火災等により山容は縮小。明治維新の廃仏毀釈により一時は荒廃し、関東大震災では本堂が倒壊した。
しかし歴代住職・檀信徒の尽力で復興がなされ、戦後、境内の拡張・鐘楼・客殿・観音堂霊園・薬師堂・坊ヶ下霊園、さらに合祀霊園である清浄苑が整備された。
観音堂には、「朝臣の坊」の観音像が安置されていたことから、現在でも「あそんのぼうかんのん」とも」言われ辰年には安房郡札観音のお開帳がある。
本堂に安置されている石塚地蔵尊は元禄十三年の作で、その胎内には室町期の仏像が収められている。
大寺山の奥の洞穴は館山市指定史跡。縄文・弥生時代の土器や菅玉、舟葬の遺跡、古墳時代の甲冑等の副葬品が多数発見された。
出土品は館山市博物館および千葉大学考古学研究室に保管されている。(境内掲示より)
「館山市史」による総持院の縁起
当寺は、永長二年(一〇九七)安房国司源親元の発願によって建立、獅子吼山総持院慈眼寺と号する。もと十六坊舎を擁した真言宗の名刹と伝えられる。その後、数度の火災に遇い、一時荒廃したが、里見氏によって再興されたので、山号を三富山と改め、頼忠を中興としている。現在も末寺に、積蔵寺、長泉寺、金剛寺、善栄寺等があり、一般には、沼の大寺として知られている。当寺は、堀河天皇の永長二年創立の名刹で、現在も多くの貴重な古文書、文献を所蔵している。もともと、この寺は、里見氏との関係が密接で、第九代里見義康の天正十九年(一五九
一)の寺領允行状、第十代里見忠義の慶長一一年(一六〇六)の朱印状、元和二年(一六一六)の代官中村弥右衛門達状等がある。なお、この達状は、九十八カ所に出されたもので、郡市内にも多く現存している。中村弥右衛門の元和二年の達状は、白浜町杖珠院、市内大井手力雄神社にも保存されている。『房州寺社領九拾八ケ所扣帳』は、寛永十四年(一六三七) に作られた目録であるが、それによると、九十八カ所の内、五十二カ所が、御朱印に切替えられた大社寺である。その他、当寺には、第三代将軍徳川家光以下歴代将軍の御朱印状の原本が、そのまま完全に保存されている。その例は珍しく貴重な文献である。また当寺の末寺で現在廃寺になっている秀明院が、別当寺であった真倉村御霊社の高五石の中村弥右衛門吉繁の達状も保存されている。(「館山市史」より)
獅子吼山総持院の周辺図